Deniehy, Daniel Henry
デナヒー、ダニエル・ヘンリー
1828-1865年
シドニー生まれ。
法律家、政治家、演説家、文学者。
ダニエル・ヘンリー・デナヒーは1828年8月18日にシドニーで生まれた。彼の両親はアイルランド人で、流刑囚としてオーストラリアに送られた。デナヒーは幼少期から多方面に類まれなる才能を発揮し、それに気づいた両親は彼に複数の学校に通わせ教育を施した。事業に成功していた両親の支えを受け、彼は14歳の時にイングランドに家族と渡り、大学の講師に師事した。またアイルランドを訪ねた際は、青年アイルランド党の指導者たちに深く感銘を受けた。1844年4月29日に移民船に乗ってシドニーに帰還すると、彼は学業を続け、弁護士であるニコル・ステンハウスNicol Stenhouseに雇われた。1851年3月には弁護士の資格を得たが、彼の関心はだんだんと文学に移り、そのうえ政治活動にも参加しはじめた。その後の彼は、法律家、文学者、政治活動家、演説家として活躍する。
彼は1851年3月に弁護士資格を得て活動を始めたが、文学と政治への興味の傾きが見られた。1854年には「養生と弁護士活動のため」にゴールバーンに引っ越している。1857年以降再び政治家として活動を始めるが、政治活動に幻滅し、さらに息子をも失った後、1864年にシドニーに帰郷し、法律関係の仕事を再開した。
彼はヨーロッパから帰還し弁護士ステンハウスの下についた直後に、文学者としても才能を発揮した。1845年、「ひとめぼれ」という中編小説を雑誌に投稿し、1847年までに論評文や詩も投稿している。彼と弁護士ステンハウスとの関係により、彼は容易に本を入手したり閲覧したりすることができた。彼は1851年から1853年まで、シドニー芸学校で詩とフランス文学の講義を行った。政治活動を始めた後も、彼は文学活動を行った。政治的な主張を雑誌に投稿するだけでなく、1857年には友人チャールズ・ハーパーCharles Harpurの詩に関する講義を行っている。
デナヒーが政治の世界に入ったのは1850年のことであった。自由憲法委員会とともに働き始めた彼はウィリアム・チャールズ・ウェントワースの植民地貴族論を「バニヤップ・アリストクラシー」と嘲笑した。一時政治から離れた後、1857年にアーガイルで当選、急進自由派として活動を行った。政治的な場面においての彼の演説家としての能力は高い評価を受けた。土地法案や移民法についての主張と同時に、1860年に「私がどのようにニュー・バラタリアの法務大臣になったのか」という痛烈な風刺を行うなど政府上層部の人事について数々の政治的主張を行ってきたデナヒーだったが、その直後イースト・マクウォリーEast Macquarieの代表としての活動中、政治や政治家の倫理的な風潮に幻滅した。彼は親しい友人さえも遠ざけ、酒に浸った。
その後のデナヒーはアルコール依存に悩まされた。政治活動に幻滅し、1862年にメルボルン、1864年にはシドニーと移り歩いた彼は、1865年バサースト路上で倒れ、大酒による発作と失血多量で病院で死亡した。
川瀬陽介1115