オーストラリア辞典
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Communications

情報の交換



 イギリスとオーストラリア植民地間の情報のやりとりは、当初は帆船によって行われていた。帆船は、アフリカの南からオーストラリアの南に向かって流れる西風を利用し100日ほどかけて郵便や新聞を運んだ。1850年代後半に蒸気船が登場したが、帆船は1880年代まで用いられた。当時植民地政府は、イギリス本国から定期便で郵便や新聞を受け取りたいという植民者の欲求に対応しなければならなかった。

 1850年代半ば、オーストラリア植民地は、電信の登場により世界的な情報革命を経験する。最初の電信回線は、ヴィクトリア植民地の首府メルボルン市の中心から、その港町で、ポートフィリップ湾にあるウィリアムズタウン間に、1854年3月に設置された。2年後には南オーストラリア、ヴィクトリア、そしてニューサウスウェールズ植民地が、電信回線を各植民地の境界まで拡大することで合意した。これにより、1858年10月までに南東部植民地間の電信ネットワークが確立した。1861年にはクィーンズランド植民地もこれに参入している。アメリカや1870年以前のイギリスでは、民間企業が電信を管理していたのに対し、オーストラリアでは最初から政府がこれを管理していた。

 電信の主な利用者は、植民地政府と新聞社、商業会議所の実業家グループであった。電信は、当初は鉄道と同時に開設されたが、植民地内の地域間の繋がりが徐々に促進されるなかで、鉄道に先立って設置される場合もあった。

 1872年、南オーストラリアのチャールズ・トッドCharles Toddが大陸横断電信線を完成させることにより、政府が管理する電信ネットワークと民間の海底電線が繋がった。イギリスやヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア植民地間では、24時間以内に情報を入手することが可能になった。5年後には西オーストラリアと南オーストラリアを結ぶ東西間の電信が設置され、大陸電信ネットワークが完成した。

 イギリスの大臣と植民地の官僚は、イギリス東方延伸会社British Eastern Extension Companyによる海底電線の経路独占に対抗するため、代わりの経路について議論していた。その結果1901年オーストラリア連邦化の前日に、オーストラリア植民地は、イギリス領間を結ぶ太平洋間の海底電線経路を管理する共同事業体に参加することを決定する。その経路は、クィーンズランドの南東にあるサウスポートからカナダのヴァンクーバーを繋ぐものだった。1902年11月にはオーストラリア連邦政府によりこの太平洋電線が設置された。

 藤川沙海1115