Nicholson, Charles
ニコルソン、チャールズ
1808-1903
ヨークシャー生まれ。
政治家、地主、学者。
チャールズ・ニコルソンは、1808年、ヨークシャー州ウィットビー近くのアイバーンデールIburndaleという村に生まれた政治家、地主、実業家、美術品鑑定家、学者、医者である。労働者家庭の娘の非嫡出子であり、父親の身元はわからない。
母親は彼が5歳の時に死亡し、彼はヨークシャーで叔父と叔母に育てられた。ヨークで学校に通った後、医学を学ぶためにエジンバラ大学へ行き、2年目に優秀な成績で学位を取り、ハンター医学協会Hunterian Medical Societyの一員になった。彼はラテン語で論文を提出し、1833年に医学博士となった。
ニコルソンはシドニーへ出帆し、貿易商となった叔父の死後に多くの財産を相続して財産的基盤を得た。シドニーに到着して数年間、彼は産科医として名声を博したが、一方では土地や株の購入、牧場の運営、船・鉄道・ガス会社の設立に積極的に投資した。
1843年にはポート・フィリップの代表として新しい立法府のメンバーに選ばれ、すぐれた論客・実業家であると認識された。46年に彼は議長に選出され、その後2度再選される。あらゆる政治的意見の人々と友人になれ、機転がきき、穏健なニコルソンは議長職にぴったりであり、会議の中の不和を調停することができた。1840年代、彼は、ウィリアム・チャールズ・ウェントワースが率いる党派や、ジェームズ・マッカッサーJames Macarthurをリーダーとみなす保守派の人々と提携することが多かった。
彼は1850年にはシドニー大学の初代評議会のメンバーに任命され、1851~62年まで副学長や学長として重役を担った。ニコルソンは1862年からイングランドに居住していたが、亡くなるまで大学事業に対して強い関心を持ち続け、イングランドに行ってシドニー大学の学位をイギリスの伝統的な大学と同じ地位として認定する特許状を得た。
1858年彼はシドニーに帰還し、1856年からクィーンズランドの新しい植民地の立法府の議長となったが、文化的な関心からふたたびイングランドに戻ることを決意し結婚してイングランドに定住した。ニコルソンはすぐにロンドンにおけるオーストラリアの「入植者」たちの集まりの中心人物になり、またオーストラリアやその他帝国の諸問題について植民省からしばしば助言を求められた。
ニコルソンは実務家と学者を兼ね備えた人間であり、活発な社交生活を送るかたわらクラシック、歴史、教育に深い興味を持っていた。王立芸術協会、英国学術協会、ほか多数の学術・文化団体の中心メンバーとなるとともに、活発に考古学的関心も追求し、チャネル諸島やユトランドなどの発掘調査を指揮したり、エジプト調査基金を支援したりした。
彼はオーストラリアの資源についても精通し、1890年にはロンドンの中央クィーンズランド分離連盟the Central Queensland Separation Leagueの利益代表に任命された。1890年代後半、彼は連邦制の有益性に疑念を表明していた。1901年に火事に見舞われたことでニコルソンの通信事業も破壊され、2年後に死去した。
彼はナイトの爵位を1852年に与えられ、1859年に準男爵となり、オクスフォード、ケンブリッジそしてエジンバラ大学から名誉学位を授与された。シドニー大学のニコルソン・ミュージアムは、彼の名前に由来する。
林恵1115