オーストラリア辞典
Loading

和文索引(か)に戻る  英文索引(R)に戻る


River transport

河川交通



 ヨーロッパ人の入植直後から個々の植民地内部で発達し、河口には小さな港湾都市が形成された。こうした都市群は、植民地同士、植民地内を結びつける結節点の役割を担った。初期には帆船か手漕ぎ船が用いられたが、1830年代には外輪式の蒸気船がシドニー湾、ハンター川に導入される。マリー、ダーリング、マランビジー各川では50年代に導入、放牧地・耕地の拡大につながった。南オーストラリア、西オーストラリアでは、貨物・旅客両方の運搬に用いられた。

 汽船の発達は河川交通の拡大をもたらし、特にニューサウスウェールズが顕著で、ショアヘイヴンからリッチモンドに至る各河川にそれぞれ汽船会社が乱立する。1840年代にハンター川で汽船会社が作られ、50~70年代にも多くの会社が続いた。河口は障害物が多く航行は危険で、このために船を失う会社も多かった。

 1891年、ハンター川の北側地区の汽船交通各社は、北部海岸蒸気交通社North Coast Steam Navigation Co.に統合される。北部全体で水運交通を一手に担ったが、1954年までには人件費の高騰と道路交通との競争で、厳しい立場に追い込まれた。ホークスベリーでは影響は少なく、週便がいまでも運航されている。これには、ツーリズムの影響が大きかった。

 マリー・ダーリング・マランビジー川地域では、19世紀の中葉から第一次大戦期まで長距離交易が盛んで、最盛期の1880年代には200隻の汽船・荷船が稼働していた。だが、植民地政府はスピードに劣る河川交通や港湾航路には多くを投資しなかった。グールワ、ポート・エリオット、ヴィクター・ハーバーは投資しても発展の可能性が少ないとみなされ、ヴィクトリア、ニューサウスウェールズでは鉄道が敷設されて河川交通に取って代わる。第一次大戦までには交通量も激減し、物資不足の影響は深刻となった。マレー川では閘門開設工事が始まったものの、もはやそれでは回復できなかった。

 戦間期、河川交通はだんだんと衰退し週1回かそれ以下の運航が多くなった。第二次大戦後には、トラック便の増加でさらに苦境に立つことになる。一方、河川交通の初期に作られ大戦前にピークを終えた小さな港湾都市は、保存運動や国民遺産 National Estate運動が高まりツーリズムが発展すると、新たな価値が見いだされることになる。新調した船が観光に活躍し、残存する19世紀の船は保存修復されて博物館に展示された。エチューカ、スワン・ヒル、ミルデューラ、レンマーク、マナムといったマリー川沿岸都市のウォーターフロント地区は、今では観光地として息を吹き返している。

 森千里1215