オーストラリア辞典
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Constitutions

憲法



 オーストラリアの憲法には州憲法と連邦憲法がある。州憲法の成立はそれぞれの植民地が自治権を獲得した時まで遡り、ヴィクトリアとニューサウスウェールズが1855年、南オーストラリアとタスマニアが1856年、クィーンズランドが1859年、西オーストラリアが1890年となっている。憲法は植民地で作成され、その後承認を得るためにロンドンのイギリス議会へと送られた。イギリスでは植民地憲法の制定は一般の法制定と同様に扱われた。

 憲法では、一般に選挙で選ばれる下院と上院から成る二院制の議会が規定されている。南オーストラリアのみ最初から全ての男性に選挙権が認められており、その他の植民地では施行後に改定され、全ての男性に選挙権が認められた。これらの憲法の下では責任政府が設置されており、総督は下院に対して責任を負う首相を指名することで政府を形成した。これが後にウエストミンスター・システムとして知られることになる制度である。この制度の下では、イギリス本国と同様に、首相が議会の多数派を率い、また総督には首相の助言に従って行動する義務があるということは法で定められておらず、慣習として行われていた。植民地議会はイギリス君主の管理の下にあり、植民地で決められた法律がロンドンで否認されることもあったが、こうしたことは、めったに生じなかった。

 憲法上では上院と下院はほとんど同じだけの権限を与えられていた。どの植民地憲法にも両院間のこう着状態を解決する条項が存在せず、そのため植民地が憲政上の危機に陥ることもあった。議会によって憲法改正が行われることもあり、一部の植民地ではそれには両院の絶対多数の賛成が必要であった。ニューサウスウェールズ憲法では植民地で作成された当初、上院の構成と下院の選挙区を変えるためには三分の二の賛成が必要であった。しかし、第1回ニューサウスウェールズ議会で、この条項が撤廃され、憲法改正が比較的容易になった。

 植民地憲法と異なり、連邦憲法には長い形成期間があった。最初の草案は1891年シドニーで行われた連邦憲法制定議会で作られた。この時の連邦制への試みは失敗したが、1891年草案は1897-98年に開催された連邦憲法制定議会で採用された憲法のもとになった。連邦憲法は住民投票によりオーストラリアで受容された。その後、連邦憲法はロンドンへと送られ、些細な修正が加えられたのちイギリスの議会法の一つとして議会を通過した。1901年1月1日に連邦憲法は施行された。これによりオーストラリアの各植民地はオーストラリア連邦の州となり、各植民地の憲法は州憲法としてそのままの形で継続した。

 アメリカ合衆国憲法はオーストラリア連邦憲法のモデルとなった。そのことは二つの連邦議院の名前や構成、権力分立の形などに現れている。憲法作成時、二つの議院が同等の権力を持つというアメリカ式の連邦制と、政府が下院に対して責任を持つ責任政府の原則をどう調和させるかという議論が起こった。最終的に大臣が議会のメンバーであることを義務付けることで決着した。また、予算案と課税に対する下院の権利の優越性を確かなものにするために、上院がそれらの法案に関しては、拒否をするか、改正を提案することだけしかできないことに決まった。

 憲法は、連邦議会が国民に対して提案した国民投票で承認を得ることで改正される。改正を行うには投票全体の過半数の支持を得、さらに半分以上の州で過半数を得ることが必要である。憲法改正の試みの多くは否決されている。そのため、実質的な憲法解釈の変更が連邦最高裁判所の判決によって行われることがしばしばみられる。

 州憲法と連邦憲法はもともとイギリス議会の議会法として制定された。連邦憲法は1931年ウェストミンスター憲章によって、州憲法は1986年のオーストラリア法によってイギリス議会の支配から脱した。これによりイギリス議会はオーストラリアに関するすべての憲法上の権利を失った。この分離に際して州の主権が守られるように配慮がなされ、ウェストミンスター憲章とオーストラリア法は、オーストラリア連邦憲法の一部として、州の要請を得て連邦議会によって改正されることが決まった。

 1215後藤貴洋