オーストラリア辞典
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Constitutional history

憲法の歴史



 この項目では憲法の誕生と発展の研究について述べる。オーストラリア憲法は狭義では1901年にオーストラリア政府の制度を定め、その権力を定義した文書である。広義においては、裁判から生まれてきた習慣や伝統のような憲法の条文を補う、公式、非公式に関わらない法律、条令、判決、慣行を含む国制を意味する。また、歴史的には、各植民地も憲法を持っており、それが州憲法に発展した。

 英国では、憲法の歴史への関心の本来の焦点はホイッグ党による、英国人古来の権利の「再発見」を通して王権を制限するという活動に由来する。同様に、初期アメリカにおける憲法の歴史は主として革命による自己正当化にあった。

 オーストラリアにおける憲法の歴史の大部分は、オーストラリアと英国との正式な法的関係の分離を辿っていく物語であり、英国の法律からオーストラリア国民が暗黙に同意するものへと変わっていく、憲法の正統性の段階的変化である。19世紀前半のオーストラリア憲法の歴史は独裁的提督の支配から自治政府への植民地制度への発展を含むものであった。そして19世紀後半の憲法の歴史は1901年のオーストラリア連邦の創設時に隆盛した連邦運動を含むものでる。連邦化して以来、憲法の歴史の議論は連邦政府と州との関係の推移に向けられた。1975年、連邦議会の2議院間は緊張関係にあり、いわゆる君主の「特権」(‘reserve powers’ of Crowns)の劇的な復活で頂点に達した。この時、総督ジョン・カーは首相ゴフ・ウィットラムを解任した。近年議論になっているのは、権利章典に関して欠如している憲法の記述の部分的補償として、暗黙の憲法上の権利の再発見である。

オーストラリアの憲法の研究は、はっきりした段階に分けることができる。初期は、初期イギリスやアメリカの憲法の歴史に関するホイッグ主義の考え(歴史は必然的な進歩の道をたどると考え、過去を現在に照らして評価する史観)と一致していた。自治政府の完全な権利の達成、すなわちオーストラリアの英国人が、英国人が英国で享受していた権利の達成に重点を置いていた。このことはA.C.V.メルボルンの『オーストラリアにおける初期憲法の発展』Early Constitutional Development in Australiaとそれをさらに拡大したR.B.ジョイスの著作で述べられており、デヴィッド・ニールはそれを『流刑植民地における法の支配』The Rule of Law in a Penal Colonyにおいて補った。

 連邦化の歴史、つまり連邦の動きとオーストラリアの憲法の起草の物語は憲法制定に関わったアルフレッド・ディーケンの『連邦化の物語』The Federal StoryやB.R.ワイズの『オーストラリア連邦の形成』The Making of the Australian Commonwealthの中で述べられるのだが、歴史家J.A. La Nauzeも『オーストラリア憲法の形成』The Making of Australian Constitutionを記している。またほとんどの研究者は、ジョン・クイックとR.R.ガランによる『オーストラリア憲法の注釈』Annotated Constitution of the Australian Commonwealthを用いて連邦化の歴史の理解に利用してきた。彼らの本は何度も出版され、現在でも憲法に関する法律家の聖書と考えられている。他の書物にはハリソン・ムーアの『オーストラリア連邦の憲法』The Constitution of the Commonwealth of AustraliaとA.イングリス・クラークの『オーストラリア憲法の研究』Studies in Australian Constitutional Lawがある。

 憲法は、常にオーストラリア憲法の起草者が起草した言葉で意図したことの意味で、解釈されたというわけではない。本来の意味で解釈されることもある一方で、歴史的コンテクストから逸脱して、額面通りにしか解釈されないこともあった。しかし憲法の歴史は今日、憲法上の論争において適切で役立つものとしてみなされている。近年、(特に憲法制定議会に基づいた)歴史的観点により連邦が会社の合同に関する法律を作る能力を制限し、憲法92条(各州間の貿易の自由を保障する項目)の範囲を制限した。

 裁判所で用いられた憲法の歴史は歴史家の歴史というよりは、法律家の歴史である傾向が強い。これは時に人工的であり、不完全、つまり幅広いコンテクストとそれらの議論よりも、憲法の文言それ自体を過度に信頼するものであった。

 いくつかの文脈においては、裁判所は多数の歴史的分析を試み、増加している判決の過程に関する、歴史家の著作を含む多様な出典を利用している。その例として1992年と1996年のマボウとウィクの判例が挙げられる。 

 柏恭平1212