オーストラリア辞典
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Conservatism

保守主義



 保守主義は多くの個人、団体、政党に対して用いられるが、その名称で自ら主張されることはあまりない。保守主義が大きな動きとしてオーストラリアに登場したのはつい最近のことで、1996年にジョン・ハワードが初めて保守主義者を自称する人物として首相となった。

 保守主義は文化の伝統や古くからの慣習、国教会、支配階級のエリートを擁護してきたが、オーストラリアにはそれらのようなものがなかった。オーストラリア社会は新しく歴史がまだ深くないというイメージが強く、政治は物質的な進歩と国民形成に重点を置いていたのである。また19世紀の自由主義と急進派、20世紀の労働党は決まって彼らに反対する立場を、新しい社会のあるべき姿に対抗する不合理なものと見なしていた。

 保守派の名称は多数ある。ニューサウスウェールズ植民地では立憲党として組織化され、ヴィクトリア州では1860~70年の立憲危機の間に、ヴィクトリアの自由派に反対する人々がこの名を用いた。1890年代に労働党と対立して初めて組織されたのは国民防衛連盟である。1909年、対労働党としてこれらの党が結びついたときには自由派を名乗った。1916~17年に労働党を除籍されたヒューズの一派は、国民労働党を再結成し、自由党と連合してナショナリストを自称した。1930年代の不況のあいだに新しく労働党以外の組織が国家主義者たちをしのぐ勢力を築き、統一オーストラリア党が結成された。第二次世界大戦勃発後はさらに新たな自由党がそれに取って代わった。

 以上の例のような名称は示唆的である。労働党の反資本主義や社会主義への傾倒と対立した政党は、必ずしも保守的観念を必要としなかった。彼らは個人の自由と私的財産などを自由主義に求め、個人事業や普遍の幸福のために何をすべきかを議論し合った。1937年、国家主義者たちは統一オーストラリア党を「保守的ではなく真に進歩的で民主的な政党である」とした。

 真に保守的な思想の政治集団は短命であった。19世紀半ば、ニューサウスウェールズ州の地主階級は、自由主義にも民主主義にも反対し、新しい憲法が施行された際に両派によって排除されてしまった。イギリス政府が植民地を長期間統治しており、このような保守主義者が権威を主張するのは難しかった。その後20世紀の対労働党勢力は、保守的観念を必要としなかった。

 オーストラリアが西洋文明社会の一員として見られるようになると、保守主義も積極的になっていった。右派の最初の大きな動きは、カトリックの労働者によるものであった。彼らは近代産業資本主義を批判して、農業生活への回帰を訴えた。この一派はスペイン内乱において、教会を守り共産主義を回避するため、総統フランコの支援に回った。第二次世界大戦後の冷戦時には広く保守的反応が起こり、反共産主義の知識人たちは、1956年に『クァドラント』Quadrantを唯一の保守的機関誌として創刊した。

 1960~70年代、あらゆる西洋諸国に及んだ文化の変容の影響は、オーストラリアでも例にもれず強力であった。世界規模でのリバタリアンの影響によって、オーストラリアの保守主義者も伝統的な価値観を再主張し、ハワード元首相の属する自由党も保守的傾向を強めた。この動きを受け、『クァドラント』も新たに共産主義の崩壊を目指す方針を掲げた。

 労働党以外の勢力が必ずしも保守的ということはなく、経済面では近代化の促進力ともなりえた。『クァドラント』も同様に、保守的な社会政策と自由市場経済を併せて提唱していた。一時期、その社説はロバート・マンRobert Manneの編集のもとで、社会民主的左派に歩み寄りを見せ、保守的な社会と文化の観念からは少し離れて自由市場経済を支持するようになったが、マンは雑誌の編集から離れることになった。

 松井文音1215