Citizenship
市民権
市民権は、広義においては政治組織を持っている共同体の一員という地位を意味する。しかしその狭義の意味については、さかんに議論がなされてきた。かつてオーストラリアでは、市民citizenは公的行事に参加する政治家以外の人々を指す用語として広く用いられてきた。また公共に寄与した優れた人物を描写するのにも使われ、中国生まれの著名な実業家・慈善家クァン・タートQuong Tartは19世紀の「もっとも市民らしい市民」として知られている。女性参政権を求める人々は、女性は法に従い社会に貢献する「市民」であるとしたほか、Helen Irvingが著書『女性の憲法』A Woman’s Constitutionで述べている、参政権拡張論者の「自分たちは市民になろうとしているのではない、すでに市民なのだ」との主張は象徴的である。
当時、法律ではイギリスやその植民地で生まれたすべての人々は臣民subjectsとされ、市民citizenという地位は共和制下の一員を指す言葉とされていた。しかし現代のcitizenshipにあたるような市民や政治的権利といった概念は、当時の臣民という身分に重なっていた。第一次世界大戦まで、生まれつきの臣民という地位は奪い得ないものとされ、法的な有効性をもつものではないにしろ個人はそれによって市民権を付与されていた。
1880年代から、オーストラリアの植民地法はこの先天的な臣民としての権利に制限をかけるようになる。中国人の移住と雇用、入国数も規制された。すべてのイギリス帝国の臣民は法の下に平等であるにも関わらず、中国人臣民にこれらの制限がかけられた。
1890年代の憲法制定議会で、ヴィクトリア代表のジョン・クイックJohn Quickが、オーストラリア憲法の中にcitizenshipの定義を加え、その権利を法的に保護しようとした。しかしほかの代表者は定義に賛同せず、有色人種の保護にも反対したことから、結局のところ臣民という用語に落ち着いた。
連邦初期の時代は、イギリス本国は批判的であったが、「白人white」の市民権とその他の者の差が強化された。白豪主義White Australia policyの根幹として知られ、非白人とくにアジア人の移住を規制した移民制限法the Immigration Restriction Actは、1901年から1960年代まで継続した。1902年には市民権が白人女性まで拡大されたが、アボリジナルをふくむほぼすべての有色人種は排除されていた。
1948、チフリー労働党政権による国籍および市民権法Nationality and Citizenship Actは、英国臣民であった彼らの法的身分を「オーストラリア市民でありながら英国臣民」であるとした。1984年の改正市民権法は、1948年法によって自動的に与えられた英国臣民の法的地位を、同法から排除した。そして、オーストラリア市民権をもたない英国臣民がこれまで享受していた市民権者としての特権、とくに選挙権を封じたのである。
1967年には国民投票が行われ、コモンウェルスがアボリジナルのための法を作れるようになったほか、彼らが国勢調査の対象外にされることがなくなった。1950年代には、市民権を社会的・政治的権利にとどまらず、経済にも拡大させるべきだという主張が影響力を増し、1970年代には女性との給与の平等や、ノーザンテリトリーのアボリジナルへの土地権の面での発展が、政治的権利を超えた市民権への関心を高めた。70年代に多文化主義が受容されてきたことも文化的な市民権の認知に寄与した。
1990年には再び市民権の政治的な側面が重視されるようになり、キーティング労働党政権は教育を通して市民権を促進するための専門家グループを設立した。1990年はさらに、アボリジナルの土地権の拡大、法的に市民権を持たない居住民の権利についての議論などが見られるようになった。
林恵1215