Conversation
環境保護
オーストラリアでは、すでに19世紀前半に森林資源の浪費に関心が払われていた。しかし、環境保護という言葉が一般的に使用され始めるのは1860年代である。その後、現代に至るまで徐々に保護の対象範囲を広げていく。また、時代によって言葉の意味が変化してきた。
19世紀においては、環境保護は環境の「保全」としての側面が強かった。森林や水、草地の資源の浪費が問題となった。しかし、同じ環境保護という言葉を用いていても、保全の対象によってその目的は異なっていた。例えば、森林の保全を推進する立場では「浪費を避けるために」長期的な視野の下での活動が行われる一方、水の保全の立場を推進する立場では短期的な水不足への対応と結びついて、「豊かに利用できるように」保全・管理活動が行われた。19世紀の環境保護活動として、森林の保全では1875年南オーストラリアでの森林委員会法の推進者であるクリショフF.E.H.W. Krichauffや、オーストラリア初の森林管理官に任命されたジョン・エドニー・ブラウンJohn Ednie Brownらが活躍した。また水の保全ではヴィクトリア水保護委員会による1880年の水保護法、1901年オーストラリア憲法による州の水利用権の保障という動きが見られた。草地の保全においては1882年にアンドリュー・ロスAndrew Rossが牧草地保護のために原生植物の調査を求める、フランシス・マイヤーFrancis Myersがハマアカザなどの将来の絶滅を警告するなどの動きがあった。
20世紀になると、環境保護の概念を巡って2つの立場での対立が見られた。一方の立場は、アメリカの革新主義的保護運動に影響を受けて、この言葉を「賢い利用」と捉えた。ヴィクトリア森林委員会の長であるオーウェン・ジョーンズOwen Jonesは「真の環境保護」とは「現世代における賢く、浪費的でない利用であり、次世代のための全ての可能な保存手段の活用である」と述べている。他方の立場では、この言葉は国立公園での管理に代表される、自然を資源のために利用するための保護ではなく、開発から守られた特定の自然地区を通しての保護として理解された。この対場をとった代表的な人物であるマイルズ・ダンフィーMyles Dunphyは、ブルーマウンテン国立公園によって野生環境の保護を目指していたが、彼によれば、環境開発の禁止が価値ある環境を保護する唯一の手段であった。この2つの立場の対立は1920年代から30年代にかけて先鋭化した。活動面では、ジョーンズらの立場の下で1951年にヴィクトリア自然資源保護連盟が設立されたほか、1965年にはオーストラリアの最も重要な環境団体である、オーストラリア環境保護基金が国王の後援を受けて設立された。ダンフィーらの立場では、ニューサウスウェールズの国立公園と未開発区域委員会が1932年に「環境保護を伴う革新Progress with Conservation」というスローガンを定めて活動を行った。20世紀後半になると、民間での環境保護運動が活発化した。担い手としては、オーストラリア環境保護基金や、この時期に新たに設立されたワイルドネス・ソサイエティやグリーンピースなどの若く好戦的な環境保護組織が挙げられる。オーストラリア環境保護基金では、1970年代に団体の方針を巡って対立が生じ、リチャード・ジョーンズ博士Richard Jonesやダンフィーの息子を中心とする活動家グループが優勢となり、具体的な活動に消極的だった幹部を追放したことが活動の活発化の原因となった。
20世紀から現代にかけて、保護の対象範囲は拡大した。世紀前半には徐々に土壌の保護が重要視されてきていたし、歴史的建造物の保護を使命とするオーストラリア遺産委員会が設立されるなど、建築物の保護という視点も20世紀になると登場した。1960年代に深刻な環境汚染が問題となって以降、環境保護に反汚染的な要素が含まれるようになったことに加えて、20世紀後半になると、それまでの環境保護概念を包括し発展させるような理解が登場した。レン・ウェッブLen Webbによって強調されるところによると、環境保護はもはやただの資源の節約ではなく、全生態系の維持と管理であった。このような理解の下で、1980年代はじめに世界環境保護戦略が、1983年にオーストラリア国立環境保護戦略が採択された。それによれば環境保護とは、「次世代の需要と希望を満たすだけの力を維持しつつ、現世代への最も大きな持続可能な利益を生み出すことを目的とした、生態系の人類による利用の管理」である。
川瀬陽介1215