オーストラリア辞典
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Exploration by sea

海の探検



 海からのオーストラリア探検は、1500年までの航海技術の発展に伴って始まった。探検の主体は当初スペインやポルトガルだったが、次第にオランダへと移った。18世紀後半にはイギリスとフランスが探検を行い、イギリスが主導的な立場に立った。この頃には、探検の目的は探検自体から博物学など科学的な調査へと変化していた。

 16世紀に限っては、ヨーロッパ人のオーストラリア海岸についての知識は、スペインとポルトガルの発見を通してのものだった。17世紀になるとオランダが追随し、交易のために探検を行った。1606年にはオランダ東インド会社の船がオーストラリア北部、ヨーク岬半島西岸に到着したが、航海を維持することはできなかった。一方で同年、スペインのルイス・バーエス・デ・トーレスLuis Vaez de Torresらがペルーからマニラへのルートを発見し、フィリピンへの最適な太平洋経路のヒントを得た。途中、現在のトレス海峡を通過した。

 その後、1616年にカーナーヴォン付近の島にたどり着いたディルク・ハートックDirk Hartogをはじめとして、何隻かのオランダ船が大陸西部に到着した。バタヴィアでは交易や地理情報のため、探検が重要視された。総督の支持のもとで、アベル・ヤンスゾーン・タスマンAbel Janszoon Tasmanらによって現在のタスマニアが視認された。タスマンらはニュージーランド、トンガを通り、大陸を周回することに成功した。こうした探検により、1650年までに、大陸の3分の2の沿岸が広く知られることとなった。オランダは難破船の生存者の捜索や、イギリス船員ウィリアム・ダンピアWilliam Dampierの探検に刺激されて、18世紀半ばごろまでオーストラリア探検で主導的な立場に立った。

 1770年、ジェームズ・クックJames Cookがオーストラリアを探検した。クックの船は嵐に流され、結果的にオーストラリア東岸を発見した。これによって、粗いとはいえオーストラリア大陸の全貌が明らかになった。18世紀後半には精度の高いクロノメーターも開発され、より正確な航海が可能となった。イギリスとフランスは交易または軍事において相手より優位に立とうと、オーストラリア探検で競い合った。

 1798年にはイギリスのマシュー・フリンダーズMatthew Flindersが探検を行った。彼によってバス海峡やセント・ヴィンセント湾などが発見されたうえ、より正確な大陸の情報が得られた。彼は海図の中ではじめてオーストラリアという呼称を使った。

 19世紀には、フリンダーズを引き継いだ調査が開始された。探検から地理学調査への変化はジョン・クレメンス・ウィッカムJohn Clements Wickhamとジョン・ロート・ストークスJohn Lort Stokesの調査に明確に反映されている。以前より正確に調査が行われ、北部でのポート・ダーウィンやヴィクトリア川などのいくつかの重要な発見もあった。しかし、海を通しての探検は事実上終わった。

 川瀬陽介0116