Entertainment
娯楽
オーストラリアの娯楽の始まりは、流刑囚とともに、競馬・クリケットなどゲームと呼ばれる娯楽が流入したことに遡る。スポーツでは、クリケットが上品で男らしいスポーツとして奨励された。また1850年以前、オーストラリアで最も広く行われていたスポーツは、競馬だと考えられている。1813年から、ヴァン・ディーメンズ・ランドVan Diemen’s Landでの大会が常時開催されるようになり、競馬クラブも各地で設立された。同じく1850年以前には、政府の規制にも関わらず、闘鶏もさかんに行われていた。劇場は、1832年に、シドニーの商人に劇場運営を可能にする免許が与えられたことが、大きな発展の契機となった。その後、ホバートやメルボルンなどで戯曲やオペラに焦点を当てた劇場が誕生し、なか中には、より大衆的な劇を提供する劇場も現れ始める。
1850年以前は、庶民、紳士など様々な階層の者が、多くの娯楽をいっしょに楽しんでいた。しかし、19世紀後半に入ると、この多くの階層に共有された娯楽の在り方が、特定の観客に向けられた娯楽へと変化する。ピアノの購入量増加に見られる家の中での娯楽の発達や、レクリエーションやレジャー活動など戸外での娯楽の発達などがその例である。また、特定の観客層を意識した、正劇・音楽を交えた通俗劇・ヴォードヴィルなど様々な種類の劇が上演された。スポーツでは、標準化されたルールの導入や、組織化された競技の確立などの変化が見られた。スカル競艇とクリケットは、国際的な大会での好成績により、オーストラリアの人々に誇りを与え、オーストラリアルールに基づくフットボールの発展は、単に娯楽を輸入するのではなく、自国で娯楽を開発する契機となった。
これら19世紀後半の娯楽の多くは、男性向けのものだった。女性は、音楽や手工芸を通して、家庭という領域でレクリエーションを見つけることが期待されていた。しかし、劇を楽しむ女性も存在しており、例えばマチネーは女性や子供向けに作られた劇だった。また、家の中という限られた空間ではあったが、女性が酒やギャンブルに興じることもあった。
第1次・第2次世界大戦の間、クリケット、競馬などのスポーツは拡大し続けた。さらに、トータリゼーターと呼ばれる賭けの方式やラジオ放送を導入した、グレーハウンド犬を使ったレースが新たな娯楽として登場した。劇場は、映画・ラジオとの戦いに苦戦を強いられる。生き残るために、ミュージカルコメディやオペレッタなど、より観客層を特定した劇に活路を見出そうとした。一方の映画は、劇場やスポーツよりも多くの人を引き付けた。この時期の映画のほとんどは、アメリカで作られたものだったが、オーストラリア製の映画も市場においてニッチな地位を占めていた。もう一つの新しい娯楽であるラジオも、古典・大衆音楽やスポーツなど様々なプログラムを人々に提供するなど、大きな発展を見せた。
1956年のテレビの登場は、家庭内での娯楽の発達をもたらした。テレビの影響で、1950年代中葉から1960年代初頭にかけて、映画の観客は半減した。当初、テレビ番組はアメリカから輸入したものがほとんどだったが、1960年代後半には自国製の番組が輸入番組を上回るようになった。スポーツでは戦後、商業化が加速する。クラブチームはよりスポンサーに依存するようになり、ルールもより速く試合が進むようなものに変更された。同じ1960年代には、ロックンロールやサーフィンなどの娯楽が、大人になったベビーブーム世代に歓迎された。また戦後になると、午後6時以降のお酒の販売を認めない制度が撤廃されるなど、娯楽にかけられていた制限が取り払われた。1990年代までに、オーストラリアの娯楽に対するアメリカの影響力はかつてないほどの大きさになっていた。これは、野球・バスケットボールの隆盛、ケーブルテレビの登場などに見られる。しかし、一方で、オーストラリア製の映画やテレビを作る産業が確立されたり、地元を基盤としたバレエ・オペラの一団が結成されたりするなど、オーストラリアで生み出された娯楽も大きな繁栄を迎える。
駒橋大輔0116