Epidemics
疫病
深刻な伝染病の流行は、ヨーロッパ人の入植以前のアボリジナルのオーストラリアでは珍しいものであった。慢性的な感染症と寄生虫の存在は恐らく日常的にあったものの、アボリジナルの人々の低い密集度と狩猟採集的な慣習が、大きな規模の定住型地域社会に現れる類いの伝染病から彼らを守っていたと考えられる。シェリー・サガースSherry Saggersとデニス・グレイDennis Grayは1991年の『アボリジナルの健康と社会』の中で、白人入植の前後でのアボリジナルの健康面を検討している。ヨーロッパ人はこの大陸に新しい病気を持ち込み、最初に記録された1789年4月の流行ではシドニー周辺のアボリジナルに大きな被害をもたらしたが、天然痘と考えられるこの病は、ヨーロッパからの開拓移民には全く影響しなかった。この原因は未だに謎のままである。アラン・フロストAlan Frostは1994年の『ボタニー湾の蜃気楼』でいくつかの仮説を検証している。
その後の天然痘の流行は1829~31年にオーストラリア南東部で、また1860年代にオーストラリア北部で起こり、アボリジナルのコミュニティに大きく影響を及ぼした。白人のあいだの大規模な流行はシドニーにおいて1881年の5月に始まった。天然痘の死亡率は人々の恐怖をあおり、シドニーでは最初に流行が起こった中国人コミュニティに対する反感が強まった。
植民地の検疫制度がシドニーで1804年に初めて利用されたものの、検査方法などは一貫しておらず、検疫法が成立する1832年までそのような状態であった。移民が増えその子供が増えると、猩紅熱や百日咳、はしか、水疱瘡、おたふくかぜといった病気が流行するようになった。19世紀半ばまでにはそのような病気が頻繁に起こり、5歳以下の子供が死に至る病気が数年ごとに増えた。ピーター・カーソンPeter Cursonの1985年の著書『危機の時代』では植民地シドニーにおけるそれらの発生について研究がなされている。はしかは特に1867年のシドニーで深刻になり、1875年には植民地の大部分に広がっていた。猩紅熱は1863~64年に南オーストラリアで多くの犠牲者を出し、1875~77年に植民地南東部全域で最悪の被害となり、合計で5000人に及ぶ死者を出した。
他の伝染病は子供と同様に大人にも及んだ。1858年に発見されたジフテリアは1860年に最も猛威を振るったが、ヴィクトリアや南オーストラリアで多くの患者が死亡した。しかし、1880年代後半の大流行の後は勢いが収まり、1895年以降はジフテリア抗毒素による治療で死者を減らすことに成功した。また腸チフスは当初、植民地熱(’colonial fever’)と呼ばれた。1850年には植民地で正式に認められ、夏の病気として定期的に起こるようになった。急速な都市化で衛生環境は悪化し、新植民地のチフスの死亡率が高まった。腸チフスは金の採掘地付近にできた、人口過密なコミュニティでも流行した。他の伝染病のように、これも不健康な空気、「瘴気」が原因と考えられた。カンプストンJ.H.L. Cumpstonが1927~28年に論証した通り、1890年に下水道が一般に整備されて公衆衛生が改善されたことが、腸チフスの減少に貢献した。
すべての伝染病の中でも、ペストは当時最も知られ恐れられている病気であった。鼠蹊腺ペストの世界的流行は1894年の香港に端を発し、1900年1月にシドニーにも上陸した。医療科学はこの時点で、伝染に際してネズミやノミが果たす役割を了解しており、予防ワクチンも開発されていた。ピーター・カーソンとケヴィン・マクラッケンKevin McCrackenによると、ブリズベン、ロックハンプトン、タウンズヴィルにもこの流行は広がり、鼠蹊腺ペストはニューサウスウェルズとクィーンズランドで約10年間ときに患者が出現した。
インフルエンザの流行は1820年に初めて、その後1825年に二度目が観察された。それ以降各植民地で流行を繰り返し、1860年にオーストラリア初の広域での流行が起こった。インフルエンザは一般的に空気感染が原因で、1885年の流行は霧の熱病fog feverと呼ばれた。1890~91年のロシア・インフルエンザは何千人にも感染したものの死者は少なく、対照的に1918~19年のスペイン・インフルエンザは高い死亡率を記録した。ハンフリー・マックィーンHumphrey McQueenはこの国の経験を、ジル・ロウJill Roe編『オーストラリアの社会政策』(1976年)の中で議論している。オーストラリアにとって多数の死や深刻な経済・社会の混乱、そして連邦と州自治政府間の緊張をもたらす厳しい試練であったと彼は言う。
1957年までに、小児麻痺以外の恐ろしい病気はすべて克服された。社会に高い生活水準が災いし、小児麻痺の免疫を早期に得られなくなった多くの子供が成長してからウイルスにさらされ、後遺症が深刻になる弊害が生じた。オーストラリアではポリオの流行が不定期に起こり、1937~39年に発生したものは特にメルボルンとタスマニアで猛威を振るった。治療法がなく、麻痺への対処に注目が集まった。1950年代に導入されたソーク・ワクチンと1960年代のセービン・ワクチンのおかげでほとんど予防できるようになった。
疫病Epidemicという言葉は以前のペストという言葉のように、地域特有でひどく恐ろしい病気のように思われることがある。肺結核は死亡率が高く、疫病でないにもかかわらず白いペストと呼ばれる。1945年までに肺結核は減り治療できることも増えたが、それでも連邦政府による撲滅運動で早期の発見と治療の方法が確立された。また今日のエイズはHIVウイルスによる後天的免疫不全症候群と言われているが、集団感染の危険性と目に見えないで進行していく点、また高い死亡率で現代の最も恐ろしい病気の一つと言える。
ワクチンの普及をとおして、天然痘、ポリオ、ジフテリア、百日咳、はしか、といった病気が我々を脅かすことはほぼなくなった。しかし感染予防のため免疫を作ることに対して公衆が無関心でいることに、保健機関は注意を呼びかけている。新しい病気の出現やウイルスと細菌、抗生物質の弱体化に際して、そのような無関心ではこれまでの医学の通用しない事態に対応できないのである。
松井文音0116