Ethnic history
エスニックの歴史
学問としてのエスニック・グループの歴史は、1920年代にシカゴ大学での移民集団研究に起源を持つ。こうした研究は、1945年以降に大量の移民が西欧に流れ込むまで、北アメリカの以外ではほとんど注目されなかったが、バルカンや東欧においては重要であった。身体的な人種研究は19世紀後半から発展していたが、20年代から40年代にかけてはナチズムの存在により、このような説に対する懐疑的な見方が広がった。45年以降、ユネスコのもとで人種ではなくエスニック・集団という用語が広まり、身体的遺伝ではなく文化・言語・共通の祖先などに注目が集まるようになる。
マルクス主義の歴史家たちは、民族性ethnicityは社会主義化で消滅するものと捉えた。構造機能主義者などは、民族性は伝統的な社会の名残であって近代化により衰えるものとし、自由主義の歴史学者たちは民族より個人の自由に関心をもっていた。しかし、多くの社会で民族意識の高まりが起こる中で、これらの見方は今や衰退している。
1940年代後半より前は、オーストラリアでは民族の多様性に乏しく、移民してきたエスニック集団よりもアボリジナルについての研究のほうがさかんだった。1920年代にはマイラ・ウィラードMyra Willardによる白豪主義研究があったが、後続は1960年代を待たねばならない。中国人に関しては言語スキルの不十分さなどによってほぼ初期の研究は見られない。リングJ. S. Lyngは非イギリス人移民に関する調査を1927年に発表し、それぞれオーストラリアの白人人口のイングランド人、スコットランド人、アイルランド人、ウェールズ人を算出した。またその他を「黄色人種」「褐色人種」「黒人」に分け、近視眼的な人種観は回避しようとしたが、彼の考え方は結局のところ同化を前提としていたようである。非イギリス系移民研究以外では、初期に関心を集めたのはカトリックのアイルランド人に関する研究くらいであった。ユダヤ人に関しては、1938年に初めて民族単位で設立された歴史協会から記事が出たが、書物が多数出版されるのは1960年代になってからである。
1945年以前は、白豪主義に基づいて非ヨーロッパ人移民制限を行っており、文化面に注目する民族研究はほとんど見られなかった。しかし1947年から流入してきた戦後の難民たちは、自らの文化を保護し記録することに熱心だった。ウクライナ人は1950年にシェフチェンコ科学協会Shevchenko Scientific Societyを設立してオーストラリア・ウクライナ人の歴史叙述に注力し、ポーランド人、ラトビア人もそれぞれ連邦レベルの評議会や大規模なアーカイブを形成した。1980年代を通して編纂された、オーストラリア民族遺産集the Australian Ethnic Heritage seriesは、20の異なる集団を網羅した重要な資料である。
1950年代に入ってさらに民族の多様性が急激に増すにつれ、各共同体内の歴史家たちは、オーストラリア史の文脈で研究を計画していった。しかし、これらの多くは学術性に欠け、また英語ではなかった。多くの未熟な研究の穴を埋めたのは、200周年機構Bicentennial Authorityが援助し、1988年に出版された百科事典『オーストラリアの人々』The Australian Peopleであり、100以上の民族集団に関する信頼に足る研究を記載している。2002年に新版が刊行されている。
近年、個人的・組織的な記念事業としてよりも、ユダヤ人の伝統に続いて民族共同体内部での歴史協会の成立も進み、それを援助する外国政府もある。一方、大学では進展が遅く、多くは言語や文化を中心とした課程の付加物に過ぎなかった。オーストラリアの社会学者や政治学者たちは、同化政策や多文化主義政策などについては熱心に議論しておきながら、民族集団に対する関心をあまり持たなかった。それでも、移民の親を持つオーストラリア生まれの「第二世代」second generationの増加によって、大学院生が数多く研究するようになった。このような個人の歴史家たちの熱意が、これまでの空白を埋めていった。アイルランド系オーストラリア人、ギリシャ系オーストラリア人、ユダヤ人、中国人などの歴史について著名な研究者が現れ、オーストラリア各地にできた博物館が貴重な資料を保全した。
オーストラリアの移民史は浅く、それも歴史家たちより社会学者の関心によるものが多かった。スラヴや東欧の集団は英語以外の言語で書かれたものも多い。移民に関する歴史研究には政府の助成も付きにくい状況だ。民族史を、オーストラリア史のメインストリームに組み込めるかどうかが、今後の大きな課題である。
林恵0116