オーストラリア辞典
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Exhibition

展覧会



 オーストラリアでは、1854年から1900年の間に展覧会が定期的に行われていた。これは1851年のロンドン万国博覧会や、1855年のパリ万国博覧会を模範としたものだった。展覧会の目的は、まず植民地間の商業を促進すること、次に国際的な関心や投資をオーストラリアの工業や農業へ向けること、最後に移民を奨励することだった。

 19世紀半ば、ヨーロッパや合衆国で開かれた万国博覧会でオーストラリアも展示を行った。1854年から1876年にオーストラリアで開催された初期の展覧会には、こうした国外の展覧会でオーストラリアを表現するために集められた商品が並んだ。参加者は植民地内の人々に留まった。初期の展覧会で代表的なものとしては、1854年のメルボルン展覧会、1866年から1867年のオーストラレイジア植民地博覧会がある。

 1879年から1890年代にかけて、オーストラリアの展覧会は、世界中の人々を魅了しようとした。最も成功した展覧会としては以下のものが挙げられる。1879年から1880年に110万人を動員したシドニー万国博覧会、1880年から1881年に130万人が訪れたメルボルン万国博覧会、そしてメルボルンで開かれ200万人が訪れたオーストラリア植民地設立百周年記念万国博覧会などである。一方、小規模の展覧会は、地域の関心や商業的な考えを反映していた。

 展覧会は、植民地政府が使命した専門委員が組織した。会場は数十の植民地や国、数百の個人や団体による区画からできていた。そこでは芸術作品、印刷物や写真のほか、工業製品、農業製品、鉱物や天然資源も展示された。会場には、装飾が施された建物が選ばれた。これは、ジョセフ・パクストンJoseph Paxtonの水晶宮をあらゆる角度から比較し参考にしたものだった。メルボルンの王立展覧会ビルRoyal Exhibitions Buildingは、オーストラリアの建築の発展における重要な現象の実例として、唯一現存するものである。シドニーのガーデンパレスGarden Palaceは1882年に火事で焼け落ち、ほかの会場も壊されて残っていない。

 多くの展示品は、展示会が終わった後、新たに設けられた公立図書館や博物館、美術館で保管された。ヴィクトリアやニューサウスウェールズ、南オーストラリアの州立図書館には、オーストラリアで開催された展覧会、そしてオーストラリアが出展したヨーロッパやアメリカの展覧会のほとんどのカタログがある。こうした展示品は、美術史やオーストラリア植民地の性格に関する研究の有用な資料となる。

 万国博覧会は、工業主義と帝国主義の高まりから出たものである。20世紀にも、展覧会は商業を促進する重要な手段であり続けた。しかし、国家間の象徴的な競合の場としては、オリンピックやワールドカップに取って代わられるようになった。

 藤川沙海0116