オーストラリア辞典
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Argus, The

『アーガス』


『アーガス』


 1957年まで発刊し、保守的な立場をとっていたメルボルンの新聞である。

 『アーガス』は1846年にウィリアム・カーWilliam Kerrにより創刊された。『アーガス』という名前は、ギリシア神話に出てくる100の目を持つ怪力の巨人アルゴスにちなんで付けられた。カーは以前、J. P. フォークナーFawknerの『アドバタイザー』紙Advertiserという新聞の編集者をしていた。彼は1848年に新聞事業をエドワード・ウィルソンEdward WilsonとJ. S. ジョンストンJohnstonに売却したが、自らは『アーガス』の編集を続けた。『アーガス』は1849年6月から日刊新聞を発行し、1864年からは週末に『オーストラレイジアン』Australasianという増刊号を発行した。

 1850年代には、『アーガス』は民主主義、自由主義、そして改革主義の立場をとっていた。さらに、分離とオーストラリアへの流刑反対を唱えており、ヴィクトリアの総督ラ・トローブLa Trobeを批判し、「土地を解放せよ」’Unlock the Lands’という標語を作った。しかし『アーガス』は、バララットで待遇の悪さに堪えられなくなった金鉱夫と軍隊との衝突、ユリーカの反乱の際にはっきりした態度を示さず、反労働者側の見解を述べている。1856年から1859年にはジョージ・ヒギンボタムGeorge Higinbothamが編集を行った。彼は成年男子普通選挙を支持していたが、急な改革に疑問を持つ経営者のウィルソンから編集者への書簡を受け取ることになった。当時『アーガス』は、『ヘラルド』紙Heraldと競争することもあったが、圧倒的に『アーガス』の方が売り上げを伸ばしていた。ウィリアム・ハウアトWilliam Howittは、当時の『アーガス』のことを「植民地におけるタイムズ紙」であると述べている。

 1860年代になると、『アーガス』はヴィクトリア植民地の政府の保守派と提携するようになる。19世紀終盤には、改革主義的な『エイジ』紙Ageが部数の面で『アーガス』を圧倒するようになった。第2次世界大戦後には、『アーガス』はタブロイド紙になり、イギリスの新聞社に吸収される。そして1957年に発刊を終了した。現在ではNational Library of AustraliaのTroveにて全ての記事が閲覧可能である。

 藤川沙海1507