Broughton
ブロートン
c.1798~c.1850
ニューサウスウェールズ、ショウルヘイヴンShoalhavenのベリー生まれ。
アボリジナルの案内人、追跡者、保安官。
アボリジニの案内人、追跡者、保安官のブロートン(c.1798~c.1850)とアボリジナルの部族民ブロガーBroger(c.1800~1830)は近親者、おそらくは兄弟である。彼らはヨーロッパ人の流入に対して異なる反応を示した。ブロートンは植民者たちによってもたらされた新たな社会を受け入れ、適合しようと努力した。対してブロガーは英語を話すことはできたが、ヨーロッパ人のやり方や価値観の受け入れに消極的であった。
1818年までブロートンはリヴァプールの外科医、チャールズ・スロスビーのもとで働いていた。ブロートンは信頼を受け案内人、通訳としてスロスビーの南方の地域への探検に同行した。1822年には商人のアレクサンダー・ベリーAlexander Berryのもとで働き始める。彼はベリーに気に入られていた。
一方、ブロガーはベリーのもとでの規則的な労働を拒み、ブーン・ガ・リー(ベリー)Boon-ga-reeの森の中で妻と、少なくとも3人いた子供たちと暮らすことのほうを好んだ。1829年2月6日、彼はアボリジニの友人であるジョージ・マーフィー(おそらくは近親者)とともに、ジョン・リヴェット、ジェームズ・ヒックスという二人の木挽に立派な杉を見せるためにカンガルー・ヴァレーの叢林に立ち入った。そこでブロガーはリヴェットを殺害した。ブロートンは熟練の追跡者として名声を得ていたためにブロガーを捕らえるよう要請されるが、彼は捜索団に無駄に時間を浪費させるだけであった。ブロガーは5月に捕らえられるが、一度は脱走した。1829年10月に彼は再び捕らえられ、裁判にかけられることとなる。
裁判ではこの地域の木挽、特にリヴェットはアボリジナルの扱いが悪いことで有名だったことや事件の数日前にリヴェットが小麦粉と叢林に住む七面鳥の卵の交換の際にブロガーとマーフィーをだましていたことがわかった。またリヴェットがマーフィーの妻を誘惑していたということもうわさされていた。1830年8月20日の裁判でのブロガーの、リヴェットが最初に攻撃を行い彼は自己防衛のために行動した、という主張が記録されている。しかし彼は有罪判決を受け死刑を宣告された。8月30日ブロガーは公開処刑された。
ブロートンは、彼の知識や技術が価値を失っていくにつれて徐々にショウルヘイヴンのヨーロッパ人社会の中で居場所を失っていく。彼はヨーロッパ人の労働倫理に従っていたことで親類から嘲笑を受け、また家庭にも問題を抱えていた。彼は1850年ごろに没する。
ブロートンとブロガーの名前はショウルヘイヴンにいくつか残されている。ブロガーズ・クリークBrogers Creekがその一例であり、他にもブロートン・クリークBroughton Creekやブロートンズ・ヘッドBroughton’s Headなどがそうである。
後藤貴洋1506