Brindle, Kenneth (Ken)
ブリンドル、ケネス
1931-1987
シドニーに生まれる。
先住民の活動家。
コミュニティ・リーダーであり、アボリジナルの運動家であるケネス・ブリンドルは1931年10月19日にシドニーで生まれた。
彼は幼少からボマデリーBomaderryのアボリジニ合同ミッションの子どもの家United Aborigines Mission children’s homeで育てられた。その後、彼はケンプシーの残忍なキンチェラ少年養護院Kinchela Boys’ Homeに送られた。高校へ通うことは許されず、タムワースの近くの農場で週80時間ほど働いた。彼はそこから逃げ、日雇いの仕事をし、またアボリジナルの居留地と牧場を転々とした。彼は後に「お互いに助け合うことで、私たちは白人が持っていない何かとても大切なものを持っていると考えた。」と述べている。
1952年7月28日にブリンドルはオーストラリア陸軍に入隊した。彼は韓国で1954年から1955年まで任務を務め、1955年7月27日に除隊となった。人生で初めて白人が自分を同等に扱ったこの経験によって、アボリジナルの人間が白人の下位である必要はないということを認識した。
彼はその後シドニーのレッドファーンに家を買った。その家で彼はメイヴィス・グーデ、ネイ・ジャッキーとその子供たちと共に生活した。田舎出身の若いアボリジニの男たちは都会に適応するまでの間ここに留まった。ブリンドルはピーターズ・アイスクリーム社、下水排水局、先住民問題の為の基金、シドニー大学の成人教育部のアボリジナルの課で働いた。
1960年に彼はレッドファーン・オールブラックス・ラグビーチームの再設立に協力し、Aboriginal-Australian Fellowship(AAF) からの資金援助を求めた。彼はAAFの執行役員となると、ニューサウスウェルズのアボリジニ保護法に反対し、アボリジナルの若者に対する警察の差別的な慣行に反対する取り組みに参加した。ブリンドルの警察とのかかわりのほとんどは他人の弁護役としてのものであったが、時おり彼は起訴され、法廷で戦い勝利した。
1963年6月4日に鉄道警察が盗みを試み逃げていたアボリジニを撃った。ブリンドルはニュータウン警察署へ行き、その情報を求めた。その後、彼は巡査であるロバート・アーマーに侮辱的な言葉を用いたとして起訴された。1964年1月の法廷で6人の検察側目撃者がブリンドルは侮辱的で酔っていたというアーマーの証拠を補った。ジェームス・ダウニング牧師は、ブリンドルが釈放されたときに口の中の傷を検査した時には、アルコールの痕跡は無かったと主張した。この証言と検察側の証拠の種々の矛盾のために、彼は無罪になった。市民的自由のための委員会The Council for Civil Libertiesは、アーマー巡査に対する訴訟を支援し、陪審はアーマーの暴行については無罪としたが、ブリンドルは悪意のある起訴を理由に400ポンドを受け取った。これは司法を通じた補償がめったに得られなかったアボリジナル社会において重要な勝利であった。
ブリンドルは平均的な身長、感じの良いオープンフェイス、際立った青い目をしていた。アボリジニとトレス海峡諸島の発展のための評議会の州秘書官(1968-1972)のように、彼は憲法と法的差別の除去につながった多くのキャンペーンや会議への重要な貢献をした。「慈善と施しは不要」の精神で、彼は市の簡易宿泊所の設立を通じて、若いアボリジナルのために教育の機会を提供することにとりわけ深く関わった。彼は、アボリジナルの子供向上協会の理事(1969-74)を務めた。アボリジナルの人権のための運動を展開したものは、多くの場合共産主義の烙印を押されたが、ブリンドルが赤(共産主義者)だと非難されたとき、彼は笑いながら「君は盲目かい?私は黒だよ。」と答えた。
彼がキンチェラの同世代の人々の人生についての本を書こうと考えていた時、アボリジニ保護委員会の記録は簡単に利用できないことが分かったので、彼は他のアボリジニの人々が彼らの過去についてより簡単に調べられるように索引を作った。この仕事を終えた後すぐに、シドニーのウォータールーの彼の自宅で1987年に亡くなった。
彼は、1989年にケン・ブリンドル記念奨学金を作成したアボリジナル教育協議会の副会長であった。KBHケン・ブリンドル記念の盾は毎年ニューサウスウェルズのラグビー・リーグ戦の決勝戦で最も活躍した選手に与えられる。
渡邊健1506