Cameron, Elizabeth (Bessy)
キャメロン、エリザベス(ベッシー)
1851‐1895
キング・ジョージズ・サウンド、西オーストラリア生まれ。
アボリジナル出身の女性教師。
エリザベス(ベッシー)・キャメロンは、アボリジナル出身女性として早い時期にかなり高い教育を受け、当時女性に開かれた数少ない専門職である教師となった。モラヴィア兄弟団 Moravian missionaryの宣教師フリードリヒ・アウグスト・ハーゲナウアー Friedlich August Hagenauer に招かれ、ヴィクトリアのギップスランド Gippslandにあった宣教団居住区ラマヤック Ramahyuckで教壇に立つが、ハーゲナウアーとの軋轢などがあり、存分な活躍ができたとは言い難い。
西オーストラリア、キング・ジョージズ・サウンド King Georges Soundで、ニュンガー Nyungarのジョンとメアリ・フラワーズ夫妻John & Mary Flowersの間に生まれる。両親は政府の駐在員ヘンリ・カムフィールドHenry Camfield夫妻の使用人であり、ベッシーと兄弟はアルバニーAlbanyのアネスフィールドの英国国教会ホームアンドスクールChurch of England home and school, Annesfieldで育った。彼女はここで音楽と読書に夢中になり、13歳で卒業後、1864-65年シドニーのイングランド教会モデル校に通う。教師をめざして英語、歴史、地理、算数のほか、絵画、音楽、舞踏、チェスなども習った。1866年にアルバニーに帰ると、カムフィールド夫人の助手のほか、セント・ジョン教会のオルガニストを務めた。
翌年、宣教団の教師として招かれ、2年契約でラマヤックに赴く。しかし、招いたハーゲナウアーの意図は、彼の下で改宗した者たちの花嫁さがしで、ベッシーのほかに4人のアネスフィールドの少女が呼ばれていた。彼は、白人入植者によるアボリジナル狩りなどの虐殺から逃れた人々の教化を、宣教の大きな目的にしていたのである。規律は厳しくハーゲナウアーは専制的で注文が多く、内気なベッシーはホームシックに苦しんだ。1868年、17歳の時にウィメラ Wimmera出身の「混血」の若者、アドルフ・ドナルド・キャメロン Adolph Donald Cameronと結婚する。式は長老派・先住民式の両方で行われた。
学校での仕事は男性教師に替わられ、彼女と夫は宣教団の寄宿学校管理に当たることになったが、やがて8人の子供の子育てがのしかかる。宗教指導や教会の仕事にも携わったが、報われない家庭の仕事は重荷だった。1872年、一家は職を離れるが、居住区には留まった。相対的に言って安全で生活が楽だったからである。
その後数年、ベッシーは家事に疲れ、自信を失い鬱々と暮らした。2人の子供や妹エイダを失いもした。宣教師たちは、仕事を放棄したと彼女を責め、他のアボリジナルの模範になりそこなったと非難した。ドナルドはハーゲナウアーの下で監督となるが、不倫騒ぎを起こし失職する。ベッシーは居住区を離れることを考えるが、ハーゲナウアーは彼女には子供を保護できないと反対した。
1882年、夫婦は和解したが、ハーゲナウアーとは決裂する。ギップスランドの宣教団居住区とウェスタン・ディストリクトを行き来する許可を求めたことから、ヴィクトリアのアボリジニ保護委員会 Victoria Board for the Protection of Aboriginesとも衝突した。1886年法令が厳格化され、健康な「混血」者は居住区を離れるよう求められると、2人は入植者のコミュニティで職探しと差別に直面することになる。ラマヤック帰還を認められるが、娘の2人は強制的に家事使用人として働かされた末妊娠し、非嫡出子を生んだ。
1892年以降夫婦は別居、ベッシーは断続的にラマヤックに住んで子供たちを手助けし、また他のアボリジナル女性たちが家族一緒に過ごせるように尽力した。子供たちが引き離されないよう、アボリジニ委員会の支援を求めたのである。だが、彼女の努力は、委員会の重職にあったハーゲナウアーから不当な扱いを受けた。精神的・身体的な重圧の末、彼女は1895年1月14日、バーンズデイルBairnsdaleで死去した。