Archer, Caroline Lillian
アーチャー、キャロライン・リリアン
1922—1978
シャーバーグ・アボリジナル保留地、クイーンズランド州生まれ。
電話交換手、活動家。
1922年2月22日にクイーンズランド州のシャーバーグ・アボリジナル保留地 Cherbourg Aboriginal Reserveで生まれ、1978年に亡くなった。父親は白人男性のノーマン・ブラウンで、母親はリリアン・マッソというアボリジナル女性だった。電話交換手として、また、アボリジナル活動家として活動した。
クイーンズランド先住民担当局 the Queensland Department of Native Affairsの監督下で育った。子どもの時に栄養失調だったため、生涯病弱で、足をひきずっていた。4年生まで保留地の学校に通い、14歳になるとイングルウッド近くのウェットストーン大牧場のケイ家で召使いとして働くようになる。ここで、白人の召使いと同じだけ賃金が支払われ、職業面でさらに向上するように励まされたという。
その後ブリスベンに移り、1940年代にはキャンベラホテルで働いて電話の交換盤に関する技術を学んだ。また、自身の努力により、アボリジニ規制法から免除され完全な市民権を得た。公的な承認は通常、志願者の行動や生活水準の調査に基づいていた。1950年には、ブリスベンの逓信局 Postmaster-General’s Department in Brisbaneで働いたアボリジナル初の電話交換手になった。そして、1951年にイギリス生まれの航空兵で写真家のフレデリック・フランク・アーチャーと結婚する。
それと同時に、白人のオーストラリア人と若いアボリジナルの人々が両方とも、もっとアボリジナル文化を鑑賞するようになることに特に関心を抱くようになった。若いアボリジナルたちに工芸の腕を磨く励みとビジネススキルを習得させる場とを提供するために、サーファーズ・パラダイス Surfers Paradiseに工芸品店を開いた。また、商業的な模造品が出回るのを危惧して、アボリジナルの芸術や工芸、デザインの特許取得の必要性を早くから説いた。その他には、OPAL(One People of Australia League)という、白人と非白人のオーストラリア市民を一つの国民に統合するために設立された多民族組織で、アボリジナルとして初めて幹部になるなど、活発に活動した。また、学校などでアボリジナル文化の状況についての講演をするといった、クイーンズランド教育省 the Queensland Department of Educationやキャンベラのアボリジナル問題省 the Department of Aboriginal Affairsのための仕事もした。1977年には女王即位25周年記念メダルを授与された。1978年12月8日にニューサウスウェールズのクーナバラブランの近くで起きた自動車事故による怪我が原因で亡くなり、火葬された。
陳怜美1506