オーストラリア辞典
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Monash, John

モナシュ、ジョン


1865-1931
ウェスト・メルボルン、ヴィクトリア生まれ。
オーストラリア陸軍将軍、土木技師。


 オーストラリアの軍人、技術者、行政官であったジョン・モナシュは1865年6月27日に父ルイスと母ベルタとの間の3人のうち最初の子供として、ウェスト・メルボルンに生まれた。ルイスの先祖は数世代にわたって当時プロイセン領であったポーゼン州ブレスラウ(現ヴロツワフ)近郊のクロトシンに居住しており、ユダヤ人であった。ルイスは1854年にメルボルンへ移住し商人として生計を立てたが、1863年にヨーロッパへ戻りベルタと結婚し、翌年彼女を連れてメルボルンへ戻った。

 ジョンの両親は家庭においてイディッシュ語、英語を用いたが、ジョン本人は英語のみを解した。1875年にルイスが商店を開いたニューサウスウェールズのジェリルデリーに移住したが、1877年ベルタは子供たちにさらなる教育機会を与えるため、子供たちとともにメルボルンに戻った。その後スコッチ・カレッジに入学しアレクサンダー・モリソンに学んだ。

 その後ジョンはメルボルン大学に入学し人文学と工学を専攻したが、講義は彼の目に魅力的には映らず、専攻には関心を示さなかったため初年度の試験に落第した。しかしながら、ジョンはその後奮起し(特に数学に関心を示した)1883年には第3等、1884年には第2等の成績を残している。また、1884年には大学の準軍事組織に入隊している。1885年になると、母ベルタの危篤に伴い家計を助けるため彼の学業は中断を余儀なくされた。翌年には学業を再開したが、学費の未納のためメルボルン大学を公式には1893年または1895年に卒業した。

 1886年に大学隊が解隊された後、翌年メルボルンのメトロポリタン旅団の少尉候補生として任官し、これ以降ジョンは技術者と軍人両面のキャリアを積んでいくことになる。

 1894年の4月には友人J・T・ノーブル・アンダーソンとともに土木、鉱山、機械技師としてのスタートを切ったが、モナシュが担当したベンディゴにかかる橋の一つで崩落事故が起きたために事業は最終的に失敗に終わり多額の負債を抱えた。1905年には建設業へと転職し、強化コンクリートの生産に携わることで財を成した。1913年には彼の総資産は30,000ポンドにもなった。

 技術者としてのキャリアに並行して、軍人としてのキャリアでは1908年までに中佐に昇進し、ヴィクトリア管区の軍事地図作成を担当した。また、この時期にシドニー大学で軍事学も学び高級士官としての能力を身につけた。彼が作成した「中隊指揮官への100のヒント」は士官教育課程で用いられるようになった。

 1914年に第1次世界大戦が開戦するとオーストラリアも協商側として参戦し、当時大佐であったモナシュはオーストラリア第4歩兵旅団の指揮官に任命され、彼の旅団はアンザック(ANZAC)の一部として翌年のガリポリの戦いに参戦した。当初第4歩兵旅団は予備として海上にあったが戦線の膠着に伴いアンザック入江に上陸し、最大の激戦であったサリバールを巡る戦いでモナシュの率いる旅団は971高地への正面攻撃を担当し、多大な犠牲を出した。この戦いの間、彼は准将に昇進した。

 ガリポリの戦いが協商側の敗北に終わると、モナシュの僚友の間では彼の作戦指導に疑問の声が上がったものの、彼に下された攻撃命令そのものが無謀であったことが理解されるに従い、非難は下火になった。

 1916年には少将に昇進し、新編された第3師団の指揮官となり、西部戦線を転戦している。1918年6月には中将に昇進した。

 第1次世界大戦が終結すると、派兵された16万人ものオーストラリア兵の復員が問題として持ち上がった。連邦政府は雇用問題の観点から緩やかな復員を計画していたものの、モナシュはそれに反対し8カ月以内で全将兵の速やかな復員を実現させた。

 戦後は強化コンクリート事業から手を引いて、1920年にヴィクトリア州電力委員会のマネージャーとなりオーストラリアの電力供給の安定化に貢献している。また、軍人としては帰還兵の利益を代表する存在となり影響力を行使した。

 ユダヤ人として生まれたモナシュであったが、反セム主義に対しては無関心であり、自分が差別を受けたということを決して認めなかった。それでもユダヤ人からは指導的な存在として認知されており1927年にはオーストラリア・シオニスト連合の長を務めた。なお、本人は穏健シオニストであった。

 1927年からモナシュは高血圧症に苦しみ、1931年に心血管疾患が原因で死去した。

 上谷昌平1506