Morshead, Sir Leslie James
モースヘッド、サー・レスリー・ジェームズ
1889-1959
バララット・イースト,ヴィクトリア生まれ。
軍人・経営者。
モースヘッドは、オーストラリアの軍人・経営者である。第1次世界大戦と第2次世界大戦に従軍し、第2次世界大戦では、北アフリカ戦線で勇名を馳せた。戦後は、経営者に転じ、銀行の頭取などを務めた。
モースヘッドは、1889年9月18日、鉱夫のウィリアム・モースヘッドWilliam Morsheadとその妻メアリー・イライザMary Elizaの間の6男として、ヴィクトリアのバララット・イーストで誕生した。学生時代は聖歌隊に所属し、フットボールやクリケットチームのキャプテンを務めた。その後、メルボルンの師範学校で教員資格を得、地方で教員をする傍ら、軍事教練隊の指揮も取った。
第1次世界大戦が始まると、モースヘッドは、オーストラリア帝国軍Australian Imperial Force中尉に任命された。ガリポリの戦いを通して、モースヘッドは能力を見出され、1916年4月には、第33大隊の司令官(中佐)に任命された。第33大隊は、ジョン・モナシュJohn Monashの指揮する第3師団の一部として、西部戦線の戦闘に従事した。
第1次世界大戦終結後、モースヘッドは、しばらくの間、復員作業に従事した。1921年11月17日、23歳のマートル・キャサリン・ヘイ・ウッドサイドMyrtle Catherine Hay Woodsideと結婚。1924年、オリエント・スチーム・ナビゲーション社Orient Steam Navigation Coの仕事を得、1925年と1937年の2回、イギリスを訪れる。1938年には予備役准将に昇進した。
1939年10月13日、オーストラリア帝国軍に招集され、第18旅団の司令官に任命された。1940年5月よりイギリスで訓練を受け、1941年1月、中東に派遣された。2月には少将に昇進。1941年4月、連合軍はトブルクTobrukへ撤退。モースヘッドは、ジョン・ラヴァラックJohn Lavarack大将の下、防衛戦に参加した。4月14日、モースヘッドはトブルク要塞の司令官に就任、機動防衛を実施し、枢軸軍のエルヴィン・ロンメル将軍の主力部隊を6か月間引きつけておくことに成功した。1942年3月、中東におけるオーストラリア帝国軍司令官に就任し、9月には中将に昇進した。1942年10月23日から11月5日にかけてのエル・アラメインの戦いに際し、モースヘッドは、第9師団を指揮し、ドイツ軍に甚大な被害を与えた。1943年2月、モースヘッドと旗下の第9師団はオーストラリアに帰還。3月第2軍団の司令官に任命された。1945年5月、モースヘッドは、ミルフォードE. J. Milford大将のボルネオ上陸を支援した。1945年9月には、ベネットGordon Bennett大将の敵前逃亡を裁く軍法会議の議長を務めた。
戦後、モースヘッドは、ニューサウスウェールズ銀行Bank of New South Walesの頭取、デイビッド・ジョーンズ有限会社David Jones Ltdとニューサウスウェールズ貯蓄銀行New South Wales Savings Bankの社長などを務めた。また、ボーイスカウト協会や奨学金基金の理事も務めた。1957年には、防衛関連の審議会の議長に任命された。1959年9月26日、ガンのため、ダーリングハーストDarlinghurstの聖ヴィンセント病院St Vincent's Hospitalで死去。軍葬された。
河知和幸1506