オーストラリア辞典
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Creswell,William Rooke

クレスウェル、ウィリアム・ルーク


1852-1933
ジブラルタル生まれ。
軍人。


 英国海軍士官の後、移住先のオーストラリアにおいて防衛隊の海軍で活躍。本国政府および海軍省に交渉を重ね、植民地オーストラリアにおいて英国オーストラリア海軍の創設に貢献した。「オーストラリア海軍の父」と呼ばれる。

 ジブラルタルの郵便局副局長エドマンドとマーガレットの子として生まれる。幼少期にジブラルタルのアトキン・パブリックスクールに通い、その後イングランドのイーストマン海軍兵学校に入る。1865年に英国海軍訓練艦ブリタニアに乗艦。士官候補生としてH.M.Sフィービに乗り、2年の世界航海訓練を経験した。

 次の配属は海峡艦隊の旗艦ミノタウロス号。1871年に中尉に昇進し、中国駐屯地に配属される。1873年にマレー沿岸の海賊討伐時に負傷するも、駐屯地勤務を続け、その勇敢さは際立っていた。本国へ療養で帰国すると、グリニッジ王立海軍学校へ通った。その後、東インド艦隊、東アフリカ艦隊に勤務。

 1878年に海軍内での昇進の遅さと不確定さゆえに海軍を退職。1879年には牧羊業を始めるために弟チャールズとオーストラリアに移住し、1885年までノーザンテリトリーを開拓した。その年、アデレイドで古い船員仲間で、南オーストラリア防衛隊の海軍長官のジョン・ウォルコットに出会う。彼はクレスウェルを少佐として迎え入れ、クレスウェルは当時の防衛隊唯一の軽巡洋艦H.M.C.S.プロテクターの初代艦長となった。

1886年、シドニー駐屯の英国海軍戦隊の補強のためにオーストラリア海軍力の拡大を提唱するようになった。英国戦隊の援助を得るより、彼は地方海軍力の拡充が英国海軍維持に必要と考えていた。この考えは前海軍少将ジョージ・トライオンから引き継いだものである。1886年に彼はアデレイド・エリザベスと結婚した。

 1900年、クイーンズランドの海軍司令官に就任。義和団事変において中国艦隊最高司令官の指揮下に入り、哨戒活動を行った。彼はこの頃、戦艦の近代化を手始めとするオーストラリア海軍の設立に尽力した。しかし、植民地会議では補助金と、オーストラリア駐屯地における英国海軍へのオーストラリア人の水兵に限定した(士官を除く)任用が認められただけだった。海軍省は戦略上の融通性と植民地地方海軍に対する統制権を主張し続けた。

 議会においてオーストラリア海軍創設を望むものはクレスウェルだけでなく、彼は防衛会議およびオーストラリア海軍会議のメンバーになった。

 1909年の帝国防衛会議において、ドイツの急激な海軍増強に対抗するため、オーストラリアにおける戦備の拡充が認められた。この決定は海軍省によって推奨され、1911年にジョージ5世が正式に英国オーストラリア海軍と命名した。それにともなって、クレスウェルは聖ジョージ・ミカエル上級勲章を授与された。戦備拡充に際して、軍事施設の建設、新兵・士官採用、海軍大学校設立が行われた。

 第1次世界大戦において、オーストラリア艦隊は太平洋最強の英国艦隊としてドイツ艦隊の抑止力となった。大戦中のクレスウェルの活躍は、軍の指揮以上に、戦艦建造や港湾整備、軍需物資運搬整備であった。戦後オーストラリア艦隊は本国の海軍省指揮下に置かれた。このことは本国政府とオーストラリア政府間の争いの種となった。

 彼は戦後の防衛戦略作成に熱心で、日本統治下の赤道諸島を戦略に入れていた。彼は英国オーストラリア海軍の拡充の重要性と、大英帝国海軍頼みに戻ってはならないことを強調した。また、とりわけ本国とオーストラリアの戦略的優先順位の相違が広がっていることを懸念していた。

 クレスウェルは1919年大英帝国勲章を授与された。彼はこの年に海軍を退役して、退役軍人となり、1922年に海軍中将になった。海軍を辞めてからメルボルン近郊のシルヴァンで農場経営を行い、1933年に亡くなった。その後、国葬されている。

 中村侑平1506