オーストラリア辞典
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Backhouse, James

バックハウス、ジェームズ


1794-1869
ダーリントン、イギリス生まれ。
博物学者、クエーカー派の宣教師。


 バックハウスは宣教師として植民地オーストラリアを訪れ、囚人や先住民の施設について調査した。また、博物学者としてオーストラリアの植物標本を収集している。彼はイギリスに戻った後にオーストラリアにおける囚人や先住民がおかれている環境についての著作を残している。それに加えてイギリスに戻る途中に寄ったインド洋にあるモーリシャスやアフリカに関する著作も残しており、多くの宣教師にアフリカを紹介した人物としても知られている。

 1794年7月8日に現在のイギリス、ダラムにあるダーリントンで、バックハウスは有名なクエーカー教徒の商人の家に生まれた。リーズにあるクエーカー派の学校で教育を受けたのち、ダーリントンの薬剤師の徒弟となる。後に彼はノリッジ養樹場に修行に行き、そこでオーストラリアの植物を目にすることになった。また、クエーカー派の中で刑務所改革や流刑に対する関心があったこともあり、流刑植民地への関心が高まった。さらにこの時代には、貧者への教育、禁酒運動、刑務所訪問といった運動が盛んになっていた。それに加えて、クエーカー派の指導者の影響もあり、バックハウスは海外でも同じような活動をすることに対し興味をもつようになった。彼はクエーカー派の信徒を管理するための集会の1つであるロンドン年会から経済的な支援を得て、1831年の9月にオーストラリアへ出発する。この間、バックハウスは1816年にヨークの養樹場を買い、1822年にデボラ・ロウDeborah Loweと結婚していたが、彼女は2人の子供を残して5年後に亡くなった。

 バックハウスは1832年の2月に、現在のタスマニア当時のヴァン・ディーメンズ・ランドにあるホーバート・タウンに到着した。タスマニアに3年間滞在した際には、副総督のジョージ・アーサーGeorge Arthurは、歓迎して全ての囚人施設、先住民施設に自由に出入りすることを宣教師たちに許可した。バックハウスを含む宣教師たちはマクウォリー湾やポート・アーサーの囚人入植地や先住民のための施設、囚人たちの状況などについての報告書を作成し、アーサーに渡した。

 1835年から1837年間、ニューサウスウェールズに滞在した時にも同じような活動が期待された。そこでもヴァン・ディーメンズ・ランドの時と同じようにノーフォーク島の囚人入植地、モートンベイとポート・マクウォリー、そして先住民施設に関する報告書が書かれた。この報告書はロンドンのクエーカー派本部と植民地省に送られ、刑務所や先住民施設の改善に使用された。また、バックハウスは博物学者として多様な植物標本を集め、キュー王立植物園に送っている。彼の功績が認められてバックハウシアと名付けられた植物もある。

 1837年にホバートを出発した宣教師一行はメルボルン、アデレイド、パースを訪れて禁酒運動や先住民保護委員会を促進した。その後、モーリシャスに3か月間滞在して慈善活動をおこなった。1838年6月にはケープタウンに到着し、植民地の奥地まで足を運び、80の宣教団体を訪れている。

 バックハウスは1841年にヨークに戻り、養樹場の運営を続けた。彼はオーストラリアでの植物採集に関する写本を2冊、キュー王立植物園に送っている。さらに、'A Narrative of a Visit to the Australian Colonies’, 'A Narrative of a Visit to the Mauritius and South Africa’, そして’The Life and Labours of George Washington Walter’という3つの著作を残した。これらの著作はオーストラリアの原住民や囚人たちの環境に関する有用な情報を提供しており、特に南アフリカに関するものは多くの宣教師たちにアフリカを紹介したと評価されている。

 バックハウスは1869年1月20日にヨークで亡くなった。

 藤川沙海1506