Spence, Catherine Helen
スペンス、キャサリン・ヘレン
1825‐1910
スコットランド、メルローズ生まれ。
作家、説教師、改革主義者、フェミニスト
キャサリン・ヘレン・スペンスは、作家、説教師、改革主義者、フェミニストであり、「オーストラリアの偉大な老女」と称された。
スコットランドのメルローズ Melroseに生まれる。弁護士で銀行家であった父デイヴィッドが投機に失敗したため、1839年に一家でサウス・オーストラリアに移住。父はその後、アデレイド市最初の書記官となった。
住み込み女性家庭教師(ガヴァネス)となった後、1854年女性が初めてオーストラリアを描いた小説、 『クララ・モリソン』Clara Morison: A Tale of South Australia During the Gold Feverを発表。1880年の『ハンドファスティド』Handfastedは『シドニー・メール紙』の懸賞への応募作品であったが、「結婚の絆を弱体化させる」と批判を受け、長らく出版されなかった。
1878年からは南オーストラリアの複数の新聞で評論を執筆。『サウス・オーストラリアン・レジスター紙』でコラムを持ち、社会問題についての論客となった。
1872年には里子協会Boarding-out Societyの設立に協力、1886年国家子供評議会 State Children’s Councilが創設されるとその評議員を務めた。教育問題について積極的に執筆活動を行い、幼稚園や国立の女子中等学校設立に尽力。著書『この法の下で私たちは生きる』The Law We Live Under(1880)は、オーストラリアの学校で最初の社会科教科書として使用された。
特に選挙制度に強い関心を持ち、英政治学者トーマス・ヘアThomas Hareが唱えた比例代表制度を支持・紹介し、1892年には、植民地の現状に適合させ改良した比例代表制度「ヘア=スペンス・システム」の提唱に至る。慈善活動家バー・スミスR.Barr Smithが財政援助を行い、また初期の労働党や小さな社会主義グループも彼女の選挙制度改革の主張を支えた。1893年のシカゴ万博をはじめ世界各地で遊説し、1895年に南オーストラリア効果的投票連盟 Effective Voting League of South Australiaを結成。1897年には、第2回憲法制定会議の代議員に女性として初めて立候補、33人中22位となる。スコットランドなまりのある白髪の小柄なスペンスの姿は、社会的制約をその活動によって超えてゆく女性として熱狂的に受け入れられた。
1891年から女性参政権運動に参加、南オーストラリア女性参政権連盟 Women’s Suffrage League of South Australiaの副会長を務めた。1894年、南オーストラリアがオーストラリアで初めて女性の参政権を認めると、ニューサウスウェールズやヴィクトリアで運動を続ける。元々スコットランド教会信徒であったが、ユニテリアン派に転じ、説教師としても活躍した。
森千里1506