オーストラリア辞典
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Krefft, Johann Ludwig Gerard (Louis)

クレフト、ヨハン・ルードヴィヒ・ゲラート(ルイス)


1830−1881
ブラウンシュヴァイク公国生まれ。
動物学者。


 1830年2月17日にブラウンシュヴァイク公国 the Duchy of Brunswickに生まれた。父親は菓子製造にたずさわっていた。1834年から1845年にブラウンシュヴァイクの聖マルティン・カレッジ St Martin’s Collegeに通い、その後、ハルバーシュタット Halberstadtの商社で働いた。1850年にアメリカ合衆国に移住し、1852年11月にはヴィクトリアに到達した。金鉱地で働いた後、1857年に、ウィリアム・ブランドウスキ William Blandowskiの、マリー川下流、ダーリング川 The Lower Murray and Darling Riversへの探検に同行した。そこで収集したものをメルボルンのナショナル・ミュージアムで分類した。

 1860年6月にシドニーのオーストラリア博物館の館長補佐になり、1864年5月には館長に就任した。ヘビを専門に研究し、動物学と地質学に幅広い知識を持っていたクレフトは博物館のコレクションを築き上げ、科学者として国際的な名声を得た。チャールズ・ダーウィンCharles Darwinをはじめとするヨーロッパやアメリカの科学者らと文通した。クレフトはまた、ダーウィンの進化論を受け入れた数少ないオーストラリアの科学者の1人であり、1860年代にその理論を広めた。ニューサウスウェールズの王立協会、ロンドンのリンネ学会、ロンドン動物学会などの会員だった。

 1866年にウェリントン洞窟を探検し、当地の化石を発表した。クィーンズランド肺魚を発見し、それをウィリアム・フォスターWilliam Forsterにちなんでケラトドゥス・フォルステリと名付けた。また、オニイトマキエイをエディンバラ公爵Duke of Edinburghにちなんで名付けた。エディンバラ公爵をもてなすため、博物館でヘビとマングースを戦わせた。およそ200本の論文で多くの種を描写したが、『オーストラリアのヘビ』The Snakes of Australia(1869)、『ロンドン動物学会会報1870』Proceedings of the Zoological Society of London 1870の中の肺魚の描写、『オーストラリアの哺乳類』The Mammals of Australia(1871)がクレフトの主要な刊行物である。また、多くの図入りの記事を『シドニー・メイル』the Sydney Mailのために書いた。

 博物館の事業に身を捧げたため、クレフトはウィリアム・マクレイWilliam Macleayやジェイムズ・コックスJames Cox、エドワード・スミス・ヒルEdward Smith Hillなどの何人かの理事と衝突した。彼らの大半は、博物館が収集するはずの物を個人的なコレクションにしていた。1873年12月にいくつかの金の標本が博物館から盗まれ、クレフトのまわりには様々な噂がたった。立法議会(下院)の選出した委員会の調査により、クレフトの免職を勧める報告書が提出された。1874年6月に会議で、理事たちはクレフトの素行を調査するために小委員会を設置した。大酒飲みであることから理事たちの指示に従わないことにまで及ぶ12の告発があがり、クレフトは館長に不適格として免職された。クレフトは理事たちにそのような権限はないとし、博物館内に立てこもったが、8月の終わりには理事たちを代表したヒルによって強制的に退去させられ、いくつかの所有物を取り上げられた。クレフトはヒルを訴え、賠償金250ポンドを得た。裁判官のチークCheekeは、理事たちに館長を免職する権限はないと裁定した。1875年にヒルは再審を求めたが、裁判官たちの間では、理事たちの免職権限について意見がまとまらなかった。1876年6月にクレフトの免職が承認された。

 博物館の問題でクレフトの意欲は削がれ、またその生活は破綻した。クレフトの研究論文の多くは未刊行で、そのコレクションは損害を受けた。経済的な立場は不安定になり、新しい仕事を得ることはできなかったうえ、1880年には1131ポンドの負債のため、家屋敷が没収された。1881年2月19日に肺のうっ血のため死亡し、ランドウィックRandwickのセント・ジューズ・チャーチ・オブ・イングランド St Jude’s Church of Englandに埋葬された。

 陳怜美1506