オーストラリア辞典
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Mahomed, Gool Badsha

モハメッド、グール・バドシャ


c.1875-1915
アフガニスタン・パキスタン北西の国境沿いに生まれる。
ラクダによる輸送業。


 モハメッド・グール・バドシャ・モハメッドGool Badsha Mahomedはアフガニスタン・パキスタン北西の国境沿いの山岳地帯のあたりで生まれた。そこは、カブールの統治権力の及ばない、現地部族の慣習法で自治が行われているような場所だった。彼は苛烈な性質をもつアフリディ族で、パシュトー語を話した。

 若い頃にオーストラリアに渡りラクダ使いとして働いたといわれ、その後帰国してトルコ軍に入隊した。スルタンのもとで戦闘に加わったのち、1912年頃にオーストラリアに戻ってきたが、ラクダ使いはビジネスとして衰退していて、続けることができまなかった。銀山で働いても解雇され、やむをえず通りでカートを押し、売り歩くアイスクリームの行商人になる。

 それからまもなく起こった第1次世界大戦期、国家同士の対立だけでなく、多くの鉱山労働者が自分と同じように失業中であるという現状への激しい怒りが、彼を熱狂的なナショナリズムと信仰に駆り立てるようになった。彼は同じアフガン移民のアブドゥッラーMullah Abdullah(Mullahはイスラム教の法や教義に精通したムスリム男性の敬称)とともに、マリファナを吸いながら、共通する不満や計画について語り合っていたという。

 1915年1月1日朝、2人はアイスクリームカートに爆発物を積み、トルコの旗を掲げて、イギリスの秘密共済組合「オッドフェロー」のピクニックのためシルバヴァートンに向かうイギリスの共済組合「オッドフェロー」の人々を乗せた電車列車に突っ込んでいった。グールGoolの目的は、トルコに敵対するイギリスの同盟国に打撃を加えることであった。共犯したアブドゥッラーAbdullahの目的は、イスラム聖職者としての彼の名誉を傷つけ彼を捕えようとした、衛生検査官への復讐であった。このテロにより4人の市民が犠牲になり、7人が重症を負ったが、乗っていた衛生検査官は被害に遭わなかった。

 長い交戦の後、2人は地元のライフルクラブのメンバーや警察によって追い詰められた。アブドゥッラーAbdullahは射殺され、グールGoolも銃創によって搬送先の病院で死亡した。3日後に見つかったグールGoolの遺書には、自らの不遇に対する不満と、単独行動であることが述べられていたが、彼はまともに字が書けなかったとみえ、ダーリ語と簡単なウルドゥー語の混ざったものとなっていた。

 事件が起きた1日の夜に2人の遺体は、鉱山爆薬を保存するための公共の建物の地下に急いで密葬された。現地の人々は2人への復讐心から埋葬を拒んだため、警察は、墓を掘るのに、当時black trackerとも呼ばれた追跡捜査役の先住民アボリジニを雇用したそうだ。

 当時に自爆テロに近いこのような事件は珍しく、オーストラリアにおいて移民の窮状に対する鬱憤が行動として表され社会的に浮き彫りになった稀有な例といえる。

 林恵1506