Marmion, William Edward
マーミオン、ウイリアム・エドワード
1845-1896
マーミオン、ウイリアム・エドワード。
商人、政治家。
ウイリアム・エドワード・マーミオンは商人・政治家であり、1845年10月22日にフリーマントルで商人であるパトリック・マーミオンと妻のシャーロット・ストーンとの間に生まれた。彼はフリーマントルとパースで教育を受け、16歳で働き始めた。21歳になると彼は彼自身の会社を立ち上げた。彼の会社はその後20年の間に業種を放牧・真珠養殖・海運などに拡大した。彼の会社は数百万エーカーの土地を共同で借り、キンバリーの牧場を経営し、また大規模な海運業を管理した。イルガンで金が発見されたのち、彼は鉱山会社を立ち上げ、その後に砂漠へ向かう人々の準備を助けた。1870年12月28日にフリーマントルのカトリック教会でアンナ・メアリー・ギボンズと結婚し、3人の息子と6人の娘をもうけた。
1870年に責任政府が設立された際、マーミオンはフリーマントルの選挙で敗れたが、彼は上院の民間人のメンバーに選ばれた。彼は1873年の選挙で当選すると、以降死ぬまでその議員でありつづけた。首相であったジョン・フォレストは1890年に彼を州の弁務官と鉱業大臣に任命した。マーミオンの下で金鉱業は静かな停滞から国際的な関心を引き付ける経済的媒体に変化した。彼は金融面に明るく、人口と交易の急増に伴う社会基盤整備の必要性を理解していた。彼は上院財政委員会のメンバーであり、大きな役割は果たさなかったけれども1891年のオーストラリア財政委員会のメンバーでもあった。
マーミオンは幅広い分野の100近くの特別委員会と王立委員会のメンバーでもあった。1894年のロンドンデリー鉱区横領の際は、金鉱山の管理者が最大投資者と大臣が同一であることから批判された。その年、彼が大臣を辞職したことは非常に大きな驚きでもって迎えられた。他方、フリーマントルの港拡張計画の支援やフリーマントルの利害の拡張への彼の貢献は広く認められている。
マーミオンが1896年7月4日に肝臓病の為に突然亡くなったことは、多くの人びとに悲しみを持って迎えられた。かつてなかったほど多くの人びとが彼の葬式に参列し、パースの町では数千人の市民が並んだ。彼はフリーマントルのカトリックの共同墓地に埋葬された。
渡邊健1506