World Heritage
世界遺産
「世界遺産条約」締結国が推薦する候補の中から、年1回開催のユネスコUNESCO世界遺産委員会が選択・決定し、世界遺産リストに登録された文化財または自然環境のこと。すぐれた遺物は人類共通の財産であるという理念から、破壊からの保護・調査・保全を目的とする。世界遺産は文化遺産、自然遺産、複合遺産の3つに分類される。
2004年6月現在、オーストラリアには15の世界遺産がある。そのすべてが自然遺産あるいは複合遺産である。以下、登録順に、ウィランドラ湖群地域Willandra Lakes Region(複:1981年)。グレート・バリア・リーフGreat Barrier Reef(自:1981年)。カカドゥー国立公園Kakadu National Park(複:1981、1987、1992年)。ロード・ハウ諸島Lord Howe Island Group(自:1982年)。タスマニア原生林地域Tasmanian Wilderness(複:1982、1989年)。中東部の多雨林保護区群〔オーストラリア〕Central Eastern Rainforest Reserves(Australia)(自:1986、1994年)。ウールルー=カータ・ジュータ国立公園Uluru-Kata Tjuta National Park(複:1987年)。クィーンズランドの湿潤熱帯地域Wet Tropics of Queensland(自:1988年)。西オーストラリアのシャーク湾Shark Bay, Western Australia(自:1991年)。フレイザ島Fraser Island(自:1992年)。オーストラリアの哺乳類化石地域〔リヴァーズレー/ナラコート〕Australian Fossil Mammal Sites (Reversleigh/Naracoorte or Naracote)(自:1994年)。ハード及びマクドナルド諸島Heard and MacDonald Islands(自:1997年)。マクウォリー島Macquarie Island(自:1997年)。大ブルー・マウンテンズ地域Greater Blue Mountains Area(自:2000年)。パーヌルル国立公園Purnululu National Park(自:2003年)。
世界的遺産の保護という文脈において、「遺産」(Heritage)という用語が世界的に広く使用されだしたのは、1970年のユネスコ・レポートからである。その2年後の1972年、第17回UNESCO総会で「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(通称「世界遺産条約」)が採択され、国境をこえた人類共有の財産を将来の世代に引き継いでいくという理念のもと、世界遺産活動が開始された。
オーストラリアでは、石油ショックやローマクラブ・レポートなどにより環境問題が国際的に認知されるなかで、1970年代初頭から遺産保護が声高に叫ばれるようになった。1973年にホイットラム政権は、国家遺産調査委員会を設立し、「我々が残したいもの」の記載と保護を目的とする法令委員会の創設を奨励した。また1981年には、国家遺産の挿絵入り目録のついた「オーストラリアの遺産」The Heritage of Australiaが出版された。そして1978年にオーストラリアは「世界遺産条約」を批准、3年後には3件が世界遺産に登録された。
オーストラリアの世界遺産にはつねに2つの大きな問題が付随している。ひとつは、他地域でも言えることだが、経済利害との対立、つまり自然開発と遺産保護のあいだの矛盾である。シャーク湾での鉱業プロジェクトと1988年の中止。グレート・バリア・リーフにおける1960年代から1990年に及ぶ石油試掘、また観光開発。クィーンズランドの湿潤熱帯地域における木材伐採と観光開発。フレイザ島での鉱物含有砂丘の採掘、大木シンカルピアの伐採等々。この問題は経済団体と自然保護主義者の対立という様相も帯びており、また環境問題を考えるうえで本質的な課題とも言えよう。
もうひとつは、世界遺産に指定された地域の多くが、もともと先住民アボリジナルの人々の土地であり、それを過去に入植者たちが収奪したものだったという点である。つまり土地所有の問題であるが、1970年代半ばから広まった土地権回復運動によって、いまでは先住民が居住する地域にある、ほとんどの世界遺産が先住民に返還されている。カカドゥー国立公園は1978年に、99年の期限付き、借用というかたちで先住民に返還された。ウールルー=カータ・ジュータ国立公園は、1976年にアナングAnanguが返還を要求し、1985年になってようやく「エアーズ・ロック」から、先住民の聖地としてかつての名称になった。
上記2つの問題は、世界遺産が掲げる「共有」という理念に疑問を投げかけている。1983年に連邦政府は、タスマニア政府のタスマニア原生地域におけるダム建設計画を妨げるため、「世界遺産条約」に定める国際条約の義務を発動した。その際、連邦政府は「遺産は国家を超えたもの」というコンセプトを主張した。一方で、アボリジナルはそれらの遺産を返還するよう要求した。この例が端的に示すように、「共有」とはいったい誰が共有するということなのか、世界遺産がかかえる本質的課題として残っている。
松本悟0704