whaling, whaler
捕鯨
イギリス、アメリカなどからの捕鯨者が1790年代からオーストラリア近海で操業するようになった。19世紀に入るとオーストラリアから捕鯨を行う者も現れる。ボタニー湾は1788年捕鯨基地として提案されたが、東インド会社の独占権の問題もあり、1798年までオーストラリア南方の海域での捕鯨は公式に認められていなかった。1800年代末までに捕鯨はオーストラリア植民地にとって重要な産業へと発展した。アザラシの脂や皮とともに、鯨油、鯨蝋、ひげが主要な輸出品となった。彫刻を施した歯は珍重品とされた。1830年代初頭まで、海産物はオーストラリアの最も主要な輸出品であったが、1830年代の中葉から羊毛がそれらに取って代わった。オーストラリア近海で見つけられるクジラはセミクジラ、ザトウクジラ、マッコウクジラである。
捕鯨には近海捕鯨と遠洋捕鯨の2種類の方法が用いられた。近海捕鯨は1806年、ヴァンディーメンズランド(タスマニア)のウィリアム・コリンズにより始められたものであり、岸にある基地から小型船によりクジラが捕獲された。この近海捕鯨は19世紀初期には最も一般的な方法であったが、遠洋捕鯨 が最盛期となる1850年までに行なわれなくなった。オーストラリアで費用のかかる遠洋捕鯨が盛んになったのは、海外資本の投資によるところが大きい。ロンドンの株式仲介人であったベンジャミン・ボイドは捕鯨業に投資したことで有名である。遠洋捕鯨に移行することで、基地はヴァンディーメンズランドだけでなく、ニューサウスウェールズ、ポートフィリップ、南オーストラリア、西オーストラリアにも数多く建設された。
捕鯨は20世紀になってからも続けられたが、貿易の面では以前ほどの重要性をもたなくなった。クジラの数の減少が懸念され、1946年国際捕鯨委員会が設立され、捕鯨業を制限した。1977年から捕鯨業に対する調査が行われ、翌年には西オーストラリアのチェインズ・ビーチCheynes Beachにある最後の捕鯨基地が終業した。さらにフロスト報告書に基づき、1980年に制定されたクジラ保護法により、捕鯨は全面的に禁止された。
中西雅子01