オーストラリア辞典
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Wentworth, William Charles

ウェントワース、ウィリアム・チャールズ


1790-1872
第2船団の船上、あるいはノーフォーク島に生まれる。
政治家、大土地所有者、探検家、弁護士、文筆家。


 1790年、7年の流刑判決を受けた母と、囚人ではないものの、強盗によって植民地で外科医として働かねばならなくなった、父ダーシ・ウェントワースD'Arcy Wentworthの子として、第2船団の船上あるいはノーフォーク島で生まれた。幼少時はノーフォーク島で過ごした。1803年、教育を受けるためにイングランドに渡り、1810年まで滞在した。しかし、東インド会社や士官学校に入ることに失敗、翌年ニューサウスウェールズに戻った。1811年、代理の憲兵隊長に任命され、それと同時にシドニー西部の無償交付された土地で農業を始めた。1813年にはグレゴリー・ブラックスランド、ウィリアム・ローソンとともにシドニー西部のブルー・マウンテンズ横断に成功した。しかし、ビャクダンを求めての冒険航海には失敗した。

 ウェントワースは、植民地では自分の才能を活用できるものが見つからないと考え、法学の勉強のため1816年にロンドンに渡り、ミドル・テンプルに入学した。1819年には本を出版し、オーストラリアにおける総督の独裁を批判、選挙制の議会の必要性を訴えた。この頃、ジョン・マッカーサーと親交を深め、その娘と結婚しようとしていたがこれに失敗し、リスペクタビリティ確保の夢は断たれた。1822年には弁護士となった。また、1823年にはケンブリッジのピーターハウスの一員として「オーストラレイシアAustralasia」に関する詩を書き、第2位となった。この詩中でウェントワースは、地球の裏側にある「新しいイギリス」、すなわちオーストラリアの今後の興隆を予言している。1824年オーストラリアに戻り、学問の成果を活かして、シドニーで法律家となり、以降数十年間、植民地内でもっともよく知られる人物の1人となっていく。

 オーストラリアに戻った彼の関心は、主にエマンシピストに向けられ、その運動の指導者となった。さらに、ロバート・ウォーデルとともに『オーストラリアン』Australian紙を発行し、紙上でエマンシピストへの法的・政治的排斥に反対し、陪審制の導入や選挙権の拡大などを訴えた。1826年にはサッズ=トンプソン事件に関係し、ウェントワースは植民地における自由の擁護者としてのイメージを確立した。1935年からは、オーストラリア愛国協会の副会長として活動した。

 しかし1830年代から40年代にかけて、自由移民の増加によって彼の思想は変化し、次第にスクオッターを擁護し、牧羊の重要性を強調するようになった。ウェントワース自身も大土地所有者であり、スクオッターでもあった。またシドニーのヴォウクリューズVaucluseに邸宅を構えた。1842年に立法評議会が生まれ、1843年にその議員に当選すると、仇敵であったイクスクルーシヴズと手を結んでギップス総督の政敵となり、常にスクオッターに有利な土地政策を求めるようになった。1840年には、ニュージーランドの3分の1に及ぶ地域を買い取ろうとしたが、ギップス総督の反対によって失敗に終わった。またウェントワースは、イクスクルーシヴズの利益を擁護し、リベラルな改革を求める都市民衆の要求に対抗したことから、保守的な政治家と考えられるようになった。

 1850年代に入ってゴールドラッシュが始まり大量の移民が流入すると、ウェントワースはリベラルな改革への反感をいっそう強めた。1853年には、ニューサウスウェールズの憲法草案を作る委員会の議長を務めた。そこには植民地貴族による任命制の上院の設置が盛り込まれており、植民地の大多数の人々による批判を受けた。1854年イングランドに渡り、1855年に自治政府の承認をその目で見ることができたが、彼の植民地貴族創設の案は受け入れられなかった。またウェントワースは教育も重要視していた。特に初等教育と大学での高等教育に力を入れ、公立教育の重要性を訴えた。彼の運動のおかげで、植民地初の大学であるシドニー大学が設立された。シドニー大学には彼の像が建立されており、その功績をたたえている。

 イングランドに渡って以降、1861-2年を除いてオーストラリアに戻ることはなく、1872年に死亡した。オーストラリア帰国時には立法評議会の議長を務めた。遺体は、彼の希望どおりにオーストラリアに戻され、国葬の後、彼の所有地であったヴォウクリューズに埋葬された。ウェントワースの墓の上にはチャペルが建てられている。

 山崎雅子1201