Wakefield, Edward Gibbon
ウェイクフィールド、エドワード・ギボン
1796-1862
ロンドン、イングランド生まれ。
著述家、組織的植民論者、経済学者。
自由主義的、人道主義的な改革である組織的植民論の中心的な人物である。彼の多数の著作は、組織的植民論の理論的支柱をなしていた。また、当時の中産階級の意識を植民理論として体現していた。
ウェストミンスター校で教育を受け、その後スコットランドのエジンバラ高校に進学する。グレイ法学院で法律を一時学んだ後に、1814年からトリノのイギリス公使館に勤務する。最初の妻の死後に、多額の財産の相続人である15歳の少女を誘拐し結婚した罪に問われ、1827年から3年間、ロンドンのニューゲイト監獄に収監された。この監獄生活がウェイクフィールドの人生の転機になった。
ウェイクフィールドは、まず監獄による刑罰制度に批判的な関心を持ち、いくつかの著作を著した。また、移民の研究をつうじ、オーストラリアに関心をもつようになる。彼の匿名の論文は、「シドニーからの手紙」と題して、『モーニング・クロニクル』紙上に1829年8月21日から10月6日まで再録され、その後出版された。その中でウェイクフィールドは、ニューサウスウェールズの土地分配システムこそが、無駄を生んでいると主張した。彼によれば、植民地の広大な土地にたいする過少労働力が賃金高騰を招き、その資力によって労働者が容易に土地を購入し小規模農民として生活するため、広大な土地に人口が拡散する。その結果、労働力不足により利潤が低下し、資本家の投資が阻害される。同時に労働力不足が分業や協業を妨げ、市場は十分に形成されず、文明レベルは最低水準にとどまる。また、奴隷や囚人といった代替労働力は、社会的悪影響を与えかねない。これらの結果、彼が理想とした本国のような社会を作り上げることは不可能になる。つまり、ウェイクフィールドは人口と土地の不均衡を最大の問題としたのである。
彼は、植民地政府が公有地売却価格を高く設定することによって、問題が解決できると主張した。土地供給の制限や公有地売却利益の移民補助への充当により労働力が創出され、植民地は発展し、資本家による投資を呼びこむ。また、移民を選別し、若い男女のカップルを優先的に移民させることによって、植民地の成長と道徳的堕落の阻止が可能になる。最後に、植民地に自治政府を与えることにより、本国と類似した植民地をつくる。このように、過剰人口と利潤率低下に悩む本国と、労働力不足に悩む植民地という2つの問題を、植民地の土地供給システムによって一挙に解決すること、これがウェイクフィールドのおもな主張である。彼の主張の多くは、土地の無償譲渡を禁止した1831年のいわゆるリポン条例の発布、移民補助制度、男女比を操作した移民の選抜、南オーストラリアおよびニュージーランド植民地の建設、ダラム報告書などで実現する。
こうしたウェイクフィールド理論は、1830年代における南オーストラリアの植民に大きな影響をあたえたといわれている。ウェイクフィールドは南オーストラリア会社で活発に活動したが、しかし、南オーストラリアでの試みが、トレンズによってウェイクフィールドの原案からかけ離れたものになると、彼は南オーストラリア植民と彼の理論の関係を否定した。
1836年7月、議会特別委員会で英領植民地の土地処分に関する証言をおこない、同年12月にはバーミンガムから議員に立候補を試みたが、すぐに立候補を取りやめている。1838年には西オーストラリア会社の理事に就任したが、西オーストラリアでモデル植民地を創設する試みは失敗に終わっている。また、ウェイクフィールドはダラム卿に従って、カナダで半年間調査に従事し、英領植民地における自治政府の必要性を説いたダラム報告書に強い影響力を与えた。
ウェイクフィールドはニュージーランドについても積極的な活動をおこなった。1837年にはニュージーランド協会が彼の自宅で結成され、翌年、同協会はニュージーランド土地会社となり、以後、積極的に植民活動を行った。1841年に同会社は特許状を獲得する。1840年代の議会のニュージーランド特別委員会では、ウェイクフィールドがマオリに関する問題について、ミッショナリーなどと議会で論戦を繰り広げている。1853年2月、彼はニュージーランドに到着し、最初のニュージーランド議会議員に選出された。しかし、あたかも総督のような行動が原因となり、彼が人気を博すことはなかった。余生はウェリントンでおくり、1862年3月16日、その生涯をとじた。
なお、彼は1度もオーストラリア植民地へ訪れたことはなかった。日本語ではウェークフィールドと表記されることもある。
坂本優一郎00