オーストラリア辞典
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Vietnam War

ヴェトナム戦争



 1954年のジュネーヴ会議は、同年、ディエン・ビエン・フーの戦いに敗れた宗主国フランスの植民地ヴェトナムからの撤退と、北緯17度線でのヴェトナム南北分断を決議し、2年後に再統一のための選挙を実施することを確認する。まもなくして、南のサイゴンは、ゴ・ディン・ディエムの非共産主義政府が、北は、ホーチミン率いる共産主義勢力が押さえた。サイゴン政府は、アメリカの助言と援助に頼り、ディエム政権の維持は、東南アジア地域における合衆国の反共政策の一環となる。結局、選挙は実施されず、南北の分断は深まり、次第に対立へと向かっていった。

 1950年代末以来、オーストラリアは、東南アジア条約機構SEATOに基づき、南ヴェトナムに援助を送っていたが、1962年に、アメリカがヴェトナムへの兵力結集を開始すると、30人の軍事顧問を派遣し、さらに64年には、軍事顧問50人および輸送機6機を派遣する。そして、1965年に合衆国が北爆を開始すると、ロバート・メンジーズ首相は、1,500人の地上軍の派兵を決定した。翌66年には、ハロルド・ホウルト首相が、訪米中に行った演説のなかで、「どこまでもLBJ(L・B・ジョンソン大統領)とともに」と述べて、アメリカ支持を表明した。オーストラリア軍は、同年には4,500人に増強され、翌67年には最高の8,000人を数えた(アメリカ軍525,000人、韓国軍50,000人、タイ軍2,500人、ニュージーランド軍500人、また、フィリピンも軍を派遣する)。オーストラリア軍は、サイゴン近辺のプオク・トゥイPhuoc Tuy地方に集中し、サイゴン=ヴン・タウ港Vung Tau間を作戦地域とした。最も激しい戦闘は、1966年のロン・タンLong Tanにおける戦いで、オーストラリア兵18人が死亡した。

 ヴェトナム戦争を東南アジア地域への共産主義中国の拡大を阻止する戦いとみるメンジーズ首相の冷戦的解釈は、オーストラリア国内で広く共有され、1968年までは、世論の大勢は戦争を支持した。しかし一方では、反戦運動の動きもみられ、その焦点となったのが徴兵問題である。1964年に導入された徴兵制度は、20歳以上の男性の兵役リストへの登録を義務づけ、労働党党首アーサー・コールウェルが「死のくじ引き」と呼んだように、毎年、タッタソル格子縞模様の樽の中からビー球を取り出すかたちで抽選が行われた。1965年から、セイヴ・アワ・サンズSave Our Sonsという女性グループが、反徴兵運動の先鋒となる。戦争が長期化するにつれて、1968年頃から急進的学生運動が活発となり、残虐シーンが頻繁にテレビで放映されるようになると、反戦運動は高まりをみせた。1970年には、モラトリアム・キャンペーンの下、最初の全国デモが行われ、150,000人が参加した。

 こうした動きのなか、1969年からアメリカ軍が撤退を始めたこともあって、オーストラリア軍も、翌70年に撤退を開始する。1972年末には、現地に残っていたオーストラリア兵は、わずか179人となる。そして、ゴフ・ホイットラム首相は、全軍の撤退と徴兵制の廃止を決定した。およそ5万のオーストラリア人が投入され(陸軍42,000人、空軍4,500人、海軍3,000人)、約450人が戦死し、約2,400人が負傷した。1973年に、アメリカ軍もすべて撤退し、75年に、北ヴェトナム軍の侵攻でサイゴンは陥落し、戦争は終結した。

 宮崎章00