Victoria
ヴィクトリア
ヴィクトリアはもとはニューサウスウェールズの一部であり、ポートフィリップ地区と呼ばれていた。
ヴィクトリアはイギリス当局の承認なしに始まった唯一の植民地である。1792-1802年にウェスタンポート、ウィルソンズ岬、ポートフィリップ・ベイを海軍調査隊が探検した。1802-03年の夏に、シドニーからの調査隊が、軍事基地に適した土地の調査を行ったが、成果は上がらなかった。また、デイヴィド・コリンズによる入植も失敗に終わった。ポートフィリップのヨーロッパ人社会は、1830年代の牧羊業の発展とともに本格的に始まった。ヘンティー家の人々や、ジョン・バットマンなどのタスマニアからの入植者、トマス・ミッチェルの探検に続いたニューサウスウェールズの入植者によって開発が推進された。1840年代にはポートフィリップの3分の2の地域に羊が入り、1851年にはニューサウスウェールズから分離し、ヴィクトリア植民地となった。
1851年に金鉱が発見されると、世界の3分の1以上の金がヴィクトリアで採掘されるまでになった。そのため、60万人ほどの移民が流入した。そのうちの半数以上はイギリスとアイルランドからであり、5万人がその他のヨーロッパと北米から、残りは近隣の植民地からであった。植民地の人口は1851年の8万人から1854年には30万人に激増した。1852年に自治が承認された。しかし、立法評議会(上院)を民主的なものにしようとする改革は停滞し、立法評議会はスクオッターと商業圧力団体に支配され続けた。その後、民主的改革が徐々に進み、多くの民主的改革が実現した。
ゴールドラッシュ移民が力を持つようになると、政治闘争に参加し、スクオッターの独占を阻止しようとした。土地選択法Selection Actsは完全ではなかったものの、1865年と1869年の法律で、小農民たちが土地の獲得に成功した。さらに、国営の鉄道と灌漑施設によって農業生産は軌道に乗った。1880年代までに金鉱、羊毛生産、農業を中心に経済が大きく発展した。道路や鉄道の整備、水の供給、小学校の建設といった「国家社会主義」政策が繁栄に貢献した。保護関税政策が採用され、オーストラリアで最も工業が発達した植民地になった。
経済的繁栄が伝統的な対立を解消し、1883年から自由派・保守派連立政権となった。1891年にはメルボルンの人口は50万人となり、規模と富でシドニーを上回るオーストラリアの金融、経済の中心であった。しかし、その終末は急激に起こった。1893年に金融恐慌が襲い、最悪の不況に陥った。そのような状況下で、連邦化の気運がヴィクトリアで高まった。
1901年の連邦結成から、1927年までメルボルンは仮の首都であった。冷蔵庫や収穫機、クリーム分離器などの改良により、食肉や小麦、バターなどの産業が栄えた。賃金は組合とストライキを排した賃金委員会による交渉で決定された。また、連邦と協力して補助移民の導入を進め、労働力の確保に務めたため、1901-18年に労働人口は倍増した。第1次世界大戦時には徴兵制と戦争について保守派と急進派が分裂した。また、アイルランド系カトリック教徒は、反プロテスタント・反保守主義で労働組合と提携した。
ヴィクトリアは21人中9人のオーストラリア首相を輩出しているが、労働党出身の首相は3人だけである。スタンリー・メルボルン・ブルース連邦首相は、1923-29年に地方党と連立政権を樹立し、移民と軍人入植地の開発を進めた。都市化が進行し、1933年には州の人口の55パーセントがメルボルンに集中した。1929-1932年にはホーガン労働党内閣が州政府を担当したが、大恐慌の重圧のもと政権を失った。保守系のアーガイル政府は、労働党と地方党の反感を買ったが、大幅な行政サーヴィスの削減と失業者の運動の弾圧を行った。その結果、1935-45年には、労働党の非公式の支持を受けた、国民党のダンスタン政権が誕生した。
不況から回復すると、海軍と航空、乗用車産業が急速に発展した。さらに、化学肥料、化学製品、爆薬、ゴム、軍需品が重要な生産品となり、この需要の高まりは戦後まで続いた。労働力が不足したため、政府は難民と移民の受け入れを拡大した。1945-52年の政情不安の後、1952-55年に初めて、労働党が単独過半数を握ったジョン・ケインJohn Cain政権が誕生した。しかし、ヴィクトリアを中心とする労働党の分裂によって、1955-82年の27年間は自由党が政権を独占した。特にボルティー首相Henry Bolteは開発と成長を重視した政策を取った。1982年に労働党のジョン・ケイン・ジュニアが政権を奪還した。その後オーストラリア初の女性首相であるジョアン・カーナJoan Kirner政権が誕生した。また、1992年に成立した自由党のジェフ・ケネットJeffrey Kennett政権は、メルボルンをスポーツと娯楽の中心にしようとした。ケネット政権の新自由主義は、パブリック・サーヴィスを大幅にカットし、経済合理主義を押し進めた。
新林秀亮1101