Turks
トルコ人
トルコ出身のオーストラリア在住者の存在は19世紀初期にまでさかのぼることができるが、その数は当初たったの20人ほどであった。1911年の人口調査までに、その数は300人以上に増加したが、トルコとオーストラリアが敵対関係にあった第1次世界大戦から戦後にかけて減少していった。これにはブロークン・ヒルでのトルコ人による発砲事件の影響も大きかったように思われる。1947年の人口調査では252人となっていたが、その後の1966年の人口調査では2500人へと増加している。(ただし、この中にはブルガリア人亡命者やトルコ系キプロス人、トルコ生まれのギリシア人を含んでいる。)
第2次世界大戦後、トルコ政府は経済危機や過剰人口、失業といった問題への対処を迫られた。トルコ政府は西ドイツやフランス、スウェーデン等と交渉し、出稼ぎ労働者受け入れの承認を得るが、この出稼ぎ労働者の成功が、オーストラリア政府にトルコ人移民に関心を持たせる契機となった。というのも、当時イギリスや他のヨーロッパ諸国からの移民数は減少してきており、オーストラリア政府はトルコを潜在的な移民源とみなしていたからである。トルコ人移民への承認は同時に、白豪主義政策とも結びついた論争を巻き起こすこととなった。
第2次世界大戦後、移民大臣アーサー・コールウェルの指導の下、ヨーロッパからの大量移民の導入による人口増加策がとられたが、これは白豪主義を維持するための政策であった。ところがこの新移民の流入によって、オーストラリア社会が多文化社会の状況を示すようになると、移民の範囲はヨーロッパ人からトルコ人やレバノン人にしだいに拡大され、ついにはアジア系移民の制限政策自体が放棄されることになった。トルコ系移民は白豪主義廃止の端緒になったのである。
トルコからオーストラリアへの大規模な移民は1967年10月に調印された2国間協定により始まった。オーストラリア政府はトルコ人移民が永住することを望んでいたので、短期移民を促進しはしなかった。トルコ人移民の選抜に当たっては、夫婦や若い子供のいる家族が優先された。しかし大多数のトルコ人移民は、自分たちは短期間働きに来たのだと誤解していた。
トルコ人移民者の数は1970年代には増加傾向にあった。しかし1980年代に入って急激に減少した。それは主に移民受け入れ政策の変化に負うところが大きい。1996年には約2万8,000人のトルコ人がオーストラリアに住み、その半数がヴィクトリア州に在住している。また人口の90%以上がメルボルンとシドニーに集中し、トルコ人経営のクラブやレストランが多く見られる。
塩崎智康0704