Trial by jury
陪審制
陪審制は、エマンシピストのグループが植民地に登場してすぐに、最大の政治的課題とした問題であった。 1814年に、最高裁判所ができるまでは、司法のシステムは流刑植民地としての軍事的性格を反映していた。 1823年にオーストラリアの最高裁判所が英国のシステムとより類似したものとなり、政府の行政と司法は別々の機能を持つことになった。陪審制が、特定の状況において初めて許されるようになった。刑事事件を除いて、もし両当事者がその使用に同意するならば、裁判長はそれを許可することができた。その後、主な問題は陪審員の任命となり、エマンシピストは陪審員になれるように要求して、キャンペーンを行った。彼らの敵、すなわちイクスクルーシヴズは、植民地に自由人としてやってきた、あるいは植民地に自由人として生まれた市民を裁くのに、もと囚人はふさわしくないと言う理由で、彼らを陪審員とすることに抵抗した。裁判所長官フランシス・フォーブズFrancis Forbesは、陪審員の選出に際して多額の財産資格を有することに賛成したものの、もと囚人の陪審員任命を支持した。
1828年に立法府と司法府の権力が拡大し、陪審制が促進されたのに続き、総督リチャード・バークによる1832年から1833年の法律の中で、陪審制はさらに多くのもと囚人が、陪審員として活動するのが可能になるよう拡大された。他方では、ヴァンディーメンズランドもニューサウスウェールズと同じ方向へ動いていた。 1830年代の終わりには、イギリス政府がより代議制に近い政体をオーストラリアの植民地に与えると決め、植民地のグループがその実現を要求して組織化されたとき、陪審制はオーストラリアの各裁判所において一般的な習慣となった。1839年までに陪審制は権利として確立された。
山口典子01