オーストラリア辞典
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the Pinjarra Massacre

ピンジャラの虐殺(ピンジャラの戦い)


あるいはthe Battle of Pinjarra


 1834年に西オーストラリア総督ジェームズ・スターリングの指揮によって行われた、アボリジナルの虐殺。当時の西オーストラリアでは、アボリジナルと入植者との間で土地や食料を巡る深刻な衝突が起こっていた。この衝突の原因は、両者の文化的背景が根本的に異なっていたことによるが、文明化政策に固執するスターリングはアボリジナルの文化を理解しようとせず、自分に反抗する人々を弾圧した。彼はなかでも、ピンジャラのカリュートCalyuteがアボリジナル諸族を糾合し、組織的な抵抗運動の指導者となることを恐れた。この事態を阻止するため、スターリングはピンジャラのアボリジナルの野営地に対する軍事行動を計画し、キャプテン・エリスの下に武装警官の部隊を組織した。彼らは、もと兵士や森林での活動に長けた者ばかりの精鋭部隊であった。

 1834年10月28日、スターリングと24人の武装した部隊が夜明けに奇襲をしかけた。可能な限り多くのアボリジナルを殺害するために、虐殺は周到に計画されていた。エリスに指揮された部隊が野営地を背後から襲撃し、眠っている人々に対して発砲した。奇襲によってパニックに陥った人々はマリー川に向かって殺到したが、川の対岸ではスターリング率いる別働隊が先住民を待ち受けていた。さらに殺戮は続き、川に飛び込んで逃れようとした人々、あるいは傷を負って川に流された人々は、あらかじめ川の下流に配置されていたジョン・ロウJohn Roeの部隊によって銃撃された。イギリス側の主張では、この虐殺で殺害されたアボリジナルは15人とされたが、アボリジナルの伝承によれば、犠牲者は80人以上にも上る。しかも、その多くは女性や子供であった。夜明けの奇襲において、女性や子供を戦闘員と区別することは困難であったからである。

 本国政府は、この身の毛もよだつ事件についてスターリングの責任を問わなかった。それどころか、軽い訓戒が行われただけで、スターリングはさらに4年間総督職を務め続けた。彼は1838年に西オーストラリアを離れたが、その時にもこの凶悪な犯罪に対する処罰は行われなかった。彼は1840年に海軍へ復帰し、地中海に派遣された。1851年、少将に昇進し、さらに中国及び東インド艦隊の総司令官を務めた後、1857年に中将となった。また、1862年には大将に昇進。サリー州での裕福な引退生活の後、1865年4月22日にこの世を去った。ピンジャラの虐殺を指揮したという事実によって、スターリングの経歴や名声が傷つけられるようなことはなかった。この事件はおそらく、オーストラリア植民地でイギリス政府が犯した、人道に対する最も重大な犯罪であり続けることだろう。

 津田博司1101