オーストラリア辞典
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swimming

水泳 



 オーストラリアにおける現代競技水泳は1846年2月14日、シドニーのドメイン近くのウルムルー湾でトマス・ロビンソンが設置した「ジェントルマンズ・バス」に始まった。440ヤード・オープン・レースと青少年100ヤードのレースの2つが行われた。これらのイベントはオーストラリアの歴史の中で、公式水泳レースの最初であった。プールは女性用と男性用があったが、オーストラリアで競技水泳が花開いたのは、こういった公衆プールであった。当時、レースの勝者にはかなりの額の賞金が与えられ、1861年ヴィクトリアでのチャンピオンカップでは、賞金は30ポンドであった。この時代の最も有名な水泳指導者はフレデリック・カヴィルFrederick Cavillである。彼の6人の息子は水泳チャンピオンになった。カヴィル一家はオーストラリアと世界の水泳の発達に多大な貢献をした。それは、オーストラリア式クロール泳法と、今で言うバタフライ泳法を発展させ、広めたからである。オーストラリア式クロールの到来は、世界中の短距離水泳に革命をもたらした。

 19世紀末までに、スイミング・クラブはオーストラリアの主なシティと地方都市の特徴となった。1888年にシドニー・ベイジング・カンパニーがピット・ストリートに屋内プールを開き、ナナトリウムと呼ばれた。ナナトリウムはW.J.ゴームリーやG.ミーダムといったスイマーを生み、クラブのイベントやプロフェッショナル・チャレンジの場所となった。しかし、多くのクラブは会員をアマチュアに限定した。1892年ニューサウスウェールズ・アマチュア水泳連盟が設立され、2年後ニュージーランドで最初のオーストラリア選手権が計画された。1905年までニューサウスウェールズの選手が選手権を支配したが、その年に初めて西オーストラリアの選手が勝利した。

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、オーストラリア人選手は国際的成功をおさめる。1900年パリ・オリンピックでは、フレッディー・レーンがオーストラリア人初の金メダリストとなった(200m自由形と200m障害レース)。1905年にはオーストラリア人がすべての男性競泳種目の世界新を記録するといった快挙をなした。オーストラリア人女性もこの頃から世界で活躍し始める。アネット・ケラーマンはそのプログレッシブな態度、向こう見ずな行動から悪評を得てしまうこととなった。1906年NSWの女子アマチュア水泳連盟は男子禁制で女子の選手権を行う。ファニー・デュラックFanny Durackやマイナ・ワイリーも第1次世界大戦前の代表的な選手である。1912年のストックホルムオリンピックで、デュラックは抜き手泳法により100m自由形を制し、男子自由形800mリレーは世界新記録で金メダルを獲得した。

 オーストラリア水泳の黄金時代の1つは、1912年ウィリアム・ロングワースの活躍で始まった。彼はニューサウスウェールズとオーストラリアで100ヤードから1マイルまでの自由形のタイトルをすべて奪った。ビル・ロングワースやファニー・デュラックはクロール泳法により活躍し、オーストラリア競技水泳の時代が本格的に始まる。1923年に、15歳の少年アンドルー・チャールトンの活躍がオーストラリアの人々の注目を集める。彼は1924年のパリ・オリンピックに続き、1928年、1932年にも出場する。しかし、その後オーストラリア水泳の勢いはしばらく停滞することになる。コーチたちがトレーニングの科学的方法を応用しはじめたことにより、1956年のメルボルン・オリンピックでオーストラリアは全部で14個のメダルを獲得した。このメルボルン大会でオーストラリアは再び水泳界のトップに返り咲いたように見えたが、その水準は低下していた。1960年のローマ大会で論争になったのは、ジョン・デイヴィド(100m自由形)の勝利の決定である。1964年の東京オリンピックでも問題が生じた。オーストラリア水泳連盟(ASU)はマリー・ローズ(1500m世界記録保持者)をオリンピック裁判で競技から追放した。また、ドーン・フレイザも3度のオリンピックで金メダル獲得という快挙をなしたにもかかわらず、国旗を盗むという行為のみならず、その反体制的行為のために10年間の出場停止となった。

 1970年のエジンバラでのイギリス・コモンウェルス・ゲイムズは、オーストラリア水泳の新たな黄金期の前兆となった。1972年のミュンヘン大会にむけ、ASUは選手たちを世界ツアーに出す。そのとき、男子はアメリカの優勢を抑えることができることを示したが、ミュンヘンでオーストラリア水泳の名声を高めたのは、シェーン・グールドShane Gould(金3、銀1、銅1)に率いられた女子であった。しかし、モントリオール・オリンピックでは、東側諸国とアメリカ勢におされ、オーストラリアは銅メダル1個という結果になってしまった。世界の強豪を目の当たりにし、オーストラリアは政府の援助が不可欠であることを理解した。モスクワ・オリンピックでは、アメリカと西側諸国のボイコットの中、東側が圧勝したが、オーストラリア水泳も9個の獲得メダル中7個のメダルを得た。1980年代初め、オーストラリア水泳隊の役員と選手との間で再び不協和音が鳴る。19歳のミッチェル・フォードは13歳のように扱われたとASUと争った。また、ネイル・ブルックスはかつて「男のドーン・フレイザ」と呼ばれたが、チームの役員と衝突した。

 1980年代後半になると、オーストラリアの水泳は商業主義の影響を受ける。主な選手はメディアとの関係も持ち、企業の後援を受けるようになった。1990年代になると、再びオーストラリア水泳は向上しはじめる。グレン・ホースマンやキーレン・パーキンズといった選手は世界クラスの選手だと期待された。バルセロナ・オリンピックではハイレー・ルイスは銀(800m自由形)と銅(400m自由形)を獲得した。パーキンズは世界記録で1500mを制し、ホースマンは2位であった。

 全体的に、水泳はオーストラリアで最も成功した国際スポーツであると言える。フレッディー・レーンがオーストラリア初の金メダルを獲得した1900年以来、男子・女子ともにオーストラリア人は世界の主な水泳諸国の中で高水準を維持している。

 中西雅子00

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