Swan River Settlement
スワン・リヴァー植民地
西オーストラリアの植民地。
1828年、ロンドンの植民地省は西オーストラリアのスワン・リヴァーへの入植を決定した。この計画は、キャプテン・スターリングによるスワン・リヴァーの有望性を指摘した報告書に端を発する。もっとも同様の入植の可能性は1820年代にコミッショナーのビッグにより報告されていたが、この時期に計画が実行された背景として、同じく同地域への入植を試みていたフランスに対抗する意図があった。
スターリングは1791年、スコットランドのラナークシアに生まれ、12歳で海軍に入隊、その後、東インド会社に入社した。1827年、スターリングは植民省の要請でオーストラリア=東洋間の貿易の準備として、オーストラリア北部へ探検を行い、その際にスワン・リヴァーを訪れた。帰国後、熱心にスワン・リヴァーへの入植を説き、植民を主に個人の事業としておこなうという条件で、当該地へ入植する権利を植民省から得た。
植民地建設を支援した団体は、トマス・ピールThomas Peelとソロモン・リーヴィーSolomon Leveyが1828年に設立したスワン・リヴァー入植協会である。土地交付の見返りとして、同協会は計画へ新規入植者を募集した。入植者を惹きつけたのは、1829年末までに到着した入植者に対して土地を無償交付する旨の規定であった。また契約では、1829年11月1日までに最初の移民団が上陸を果たせば、ピールは優先的に土地を選択できることになっていた。しかし船は6週間遅れで到着し、彼が目を付けていた25万エーカーの土地は、他人のものとなった。
1828年、総数69人からなる最初の入植集団は、新植民地の副総督スターリングの指揮下、パーメリア号で出航した。本隊に先だって東インド会社のキャプテン・フリーマントルCaptain Charles Fremantleがスワン・リヴァーに到着し、土地の領有を宣言、本隊到着の準備を行った。スターリングは6月1日、スワン・リヴァーの河口に到着し、同18日に植民地創設を宣言した。1828年終わりまでの入植者数は約1,300人を数え、植民地の名前に、スターリングが1827年に訪れた際に決めていたパースというスコットランドの都市名がつけられた。しかし、入植初期の熱意は植民地における苦境が報告されるにしたがって薄れていった。土地分配に絡む問題や、若干名の入植者が不適応であったこと、食糧の不足、新しい環境とアボリジナルからの攻撃で穀物栽培が順調に進まなかった点などが、入植を困難なものにしていた。ピールが集めた入植者の状況も同様で、多くが入植計画から脱退し、ピールを告訴する者もいた。無償交付に代わって土地の売却が始められた1832年、スターリングはイギリスへ帰国し、当局に植民地の苦境を告げ、いっそうの援助を求めた。しかしながら、植民地はさらに数年の苦難に耐えねばならず、他の植民地と比べ、その発展は遅々としたものであった。1832年に総督に任命されたスターリングは、1834年にパースに帰還、1838年に総督を辞任するまで植民地経営を執り仕切った。一方、ピールは入植計画が頓挫した後、死ぬまで農業と捕鯨業による利益を追求した。
1850年になっても、全植民地の人口は6,000人にすぎなかった。植民地の発展を支えるため、1850年初めに囚人の入植が許可され、1850年から1868年にかけて約1万人の囚人がパースに送られた。人口の少なさは、西オーストラリアの発展が他の植民地の後塵を拝す原因であった。その後、1890年代のゴールドラッシュが人口増大を促す主要な要因となった。
藤井秀明01