Surf Life Saving
サーフ・ライフ・セイヴィング、海難救助
20世紀前半に、海水浴における人命救助の技術として生まれたが、のちにスポーツとして発展したもの。選手はライフセイヴァーlifesaverと呼ばれ、水泳競技でオリンピック代表に選ばれる者も多い。
20世紀初頭のオーストラリアでは、都市の貧困や疫病、健康な兵士の確保などが問題となっていたが、海水浴surf bathingは、健康増進に役立つものとして注目されはじめた。海水浴をする人びとが増加すると、事故の危険性も高くなり、安全確保と人命救助のために、有志がいくつかのクラブをつくった。救命具の準備や、更衣室の設置、パトロール活動も、当初は無償奉仕で行われていた。1907年、ニューサウスウェールズ州政府は、水着の形の規制や、人命救助活動の助成に乗り出す。このとき、複数のクラブが集まり、ニューサウスウェールズ海水浴協会(SBANSW)を設立した。人道的な、ボランティアによるサービスという理念を掲げたSBANSWは、施設を充実させ、人びとにマナーを守らせるほか、人命救助と手当の方法の改善を州政府公認で積極的にすすめた。1910年には、救命技術の基準を定めるため、ブロンズ・メダリオンBronze Medallionを導入した。1911年、州政府はSBANSW会長のジョン・ロードを中心に「海水浴委員会」を組織し、人命救助についての調査を実施する。SBANSWは、無料の更衣スペースの廃止、水着の規制、日光浴sun bathingの指定区域の設置、さらに救命具や救助ボランティアの宿泊施設の確保を求め、政府はこれを了承した。
スポーツとしてのサーフ・ライフ・セイヴィングの本格的な始まりは1915年であり、初代のチャンピオンにはJ.G.ブラウンがついた。1920年、SBANSWは、ニューサウスウェールズ・サーフ・ライフ・セイヴィング協会へと改称。1923年、さらにサーフ・ライフ・セイヴィング・オーストラリア(SLSA)という全国組織へ改組される。SLSAは、ボランティアの人命救助活動という立場の維持につとめたが、サーフ・ライフ・セイヴィングは次第にスポーツとしても発達していった。初期の有名な選手には、ハロルド・セシル・エヴァンズHarold Cecil Evansがいる。彼は、1921年から1930年にかけて、SLSAのシニア・ボート競技で7回優勝。1928年には、ノース・スタインNorth Steyneで溺れかけた男性を救助し、王立人道協会Royal Humane Societyから、賞状を贈られる。1938年2月6日に、シドニーのボンダイ・ビーチで高波が発生し、約370名の海水浴客が波にさらわれた。この「暗黒の日曜日」事件Black Sundayでは、70名のライフセイヴァーが救助にあたることによって、死者数は5名に抑えられ、サーフ・ライフ・セイヴィングは一躍有名になる。1937年と1938年のジュニア全国大会では、ボブ・ニュービギンBob Newbigginが優勝した。彼は、1939年から1948年にかけて、シニアのサーフ・レース競技会を5回制覇した(1985年、オーストラリア・スポーツ殿堂入りを果たす)。1940年代から1950年代にかけては、ドナルド・ピーター・モリソンDonald Peter Morrisonが活躍した。
1965年、ライフセイヴァーはトライアスロンへの参加を認められた。1980年代以降、ライフ・セイヴィングは、グラント・ケニーGrant Kennyや、トレヴァー・ヘンディTrevor Hendyといったオーストラリア選手権のチャンピオンを輩出。1986年、SLSAとケロッグ社が、アイアンマン・グランプリIronman Grand Prixを設立した。42kmの「アイアンマン・ゴールド」や、15kmから19kmにわたって、サーフ・スキー・パドルや、ボード・パドル、水泳、スプリントなど複数の種目を競い合うものから成り、毎年注目を集めている。
戸渡文子00