オーストラリア辞典
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Sudan Campaign, Soudan Campaign

スーダン遠征



 1883年、エジプトの支配下にあったスーダンで、マフディー(救世主)を名乗るイスラム教徒が指導する反乱が起こり、翌年、エジプト軍救援のため、太平天国の乱で活躍したチャールズ・ゴードン将軍が現地に入るが、ハルトゥームにおいて数ヵ月間攻囲された後、85年1月に戦死する。

 「英雄」ゴードンの死は、イギリス帝国内に大きな衝撃を与え、同年2月、『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙へ投書した退役軍人エドワード・ストリックランドの呼びかけに応えて、ニューサウスウェールズの首相代理だったウィリアム・ビード・ダリーWilliam Bede Dalleyは、スーダン遠征隊の派遣を申し出て、イギリス政府に受諾される。ヴィクトリア、南オーストラリア、クィーンズランドも、同様の申し出をするが辞退される。一方、ヘンリー・パークスは、遠征隊派遣に異を唱えている。

 1885年3月、熱狂的な見送りのなか、歩兵532人、砲兵250人、救急隊36人、および馬200頭からなる遠征隊が、イベリア号とオーストラレイジアン号に乗船して、シドニーを出発する。ニューサウスウェールズ連隊と植民地警官隊が、遠征隊の大半を構成し、元イギリス軍兵士も参加した。約半数がオーストラリア生まれである。彼らは、自治植民地が帝国主義戦争に派遣した最初の志願兵であった。

 同月末、遠征隊は、スーダンの紅海に臨む港スアキンに到着する。その頃にはすでに、反乱は終息に向かっており、タマイにおける戦闘が、遠征隊が参加したほとんど唯一の実戦で、彼らの多くは、鉄道作業班あるいはラクダ部隊に配属された。7人が熱病で死亡し(死者数については異説あり)、3人が戦闘で負傷する。1886年5月に、遠征隊は、アラブ号に乗船して帰国の途につき、翌月、シドニーに到着し解散する。

 ダリーの帝国主義的ジェスチャーを揶揄した『ブレティン』紙の戯画に登場する「マンリーの少年」は、長く人々の心の中に生き続け、戦時・平時にかかわらずニューサウスウェールズおよびオーストラリアのシンボルとなる。1952年に、元志願兵の遺贈により、記念銘板が、サーキュラー・キーの東にある岩肌に埋め込まれた。

 宮崎章00