Stirling, James
スターリング、ジェームズ
1791-1865
スコットランド生まれ。
西オーストラリア植民地総督(副総督)(1829-38)。
スコットランド、ラナークシアのアンドルー・スターリングの5男として生まれる。母のアンは、父の従姉妹であり、その父はウォルター・スターリング提督である。
スターリングは12歳で海軍に入り、叔父の海軍中将チャールズ・スターリングの庇護を受ける。ナポレオン戦争に従軍し、1809年には将校に昇進し、1812年にはモゼル号の船長となる。英米戦争で活躍後、多くの将官がそうであったように、1818年12月予備役となった。
1823年、東インド会社重役で、後に下院議員となるマングルの娘エレンと結婚する。その後、フランスの新たな海軍活動が、スターリングに海軍現役復帰の機会を与える。1826年スターリングはシドニーに向かい、内陸探検で2,500エーカーの土地の無償交付を受ける一方、メルヴィル島駐屯部隊の移動先を見つけるという名目で、西オーストラリア、とりわけスワン・リヴァーの探検を行った。メルヴィル島の駐屯部隊を移動させる任務の終了後、帰国したスターリングは、植民地創設のロビー活動を活発に行った。
1828年にスターリング家の友人マリーが植民地担当大臣になると、新植民地の創設が決定され、スターリングが総督に任命された。1829年5月2日、先行したキャプテン・フリーマントルは、チャレンジャー号Challengerでスワン・リヴァーに到着、ニューサウスウェールズの一部ではなかった残るオーストラリア大陸のすべての領有を宣言し、後にパーメリア号Parmeliaで到着したスターリングは、6月18日に植民地の創設を宣言した。
スターリングは1829年から32年までと、1834年から38年までの間総督として植民地を統治した(1831年11月まで名称は副総督)。1832年に行政評議会と立法評議会が開かれるが、総督がこれを主催し、総督は植民地の事実上の独裁的支配者として君臨した。植民地創設当初の食料補給の問題の処理、入植地の探査などは総督自らがおこなった。また、名誉治安判事を任命し、秩序の維持に当たった。総督はテント生活においても、ジェントルマン的な社交生活の維持を図り、植民地はイングランド的、アングリカン的な性格を強く帯びたものになった。先住民に対しては文明化政策をとり、文明化に応じる者は保護下においたが、これに抵抗する者は処罰した。1834年10月には「ピンジャラの戦」が起こり、スターリング総督の指揮の下に、少なくとも14人のアボリジナルが虐殺された。
スターリングの治下、人口は3,000人を越えることなく、植民地の経済は停滞した。インドとの交易の試みも失敗し、穀物生産も軌道に乗らなかった。首府パースとその外港フリーマントルとの交通の便は悪く、すでに26年に創設され、31年にスワン・リヴァー植民地に合併されたアルバニーの港が、その後70年間も植民地最大の港であった。おそらく、この停滞が一因となって、アボリジナルとの関係はそれほど悪化することはなかった。スターリングは、その職責に対し10万エーカーの土地とナイトの位を授けられたが、本国では、植民の失敗の例として、組織的植民論者の批判の槍玉にあげられた。
入植者との関係が悪化し、スターリングは1837年10月に辞意を表明し、38年の12月にその受理を知らせる公文書が到着すると、翌年1月5日植民地を後にした。1840年海軍現役に復帰し、地中海に派遣される。1851年には少将に昇進し、そらに中国及び東インド艦隊の総司令官を務めた後、57年には中将になった。さらに62年に提督に昇進後、裕福な引退生活をサリー州で送り、1865年4月22日死亡した。彼の長男フレデリックは、オーストラリア海域の艦隊の指揮官となる。
藤川隆男00