オーストラリア辞典
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South Australia

南オーストラリア



 オーストラリア連邦の州の1つで1901年の連邦成立以来存在している。1627年オランダの船員が、ヨーロッパ人としてはじめてその海岸を発見したことが知られている。後にフリンダーズやボーダンをふくむヨーロッパ人が沿海地域を探検した。1800年代前半にはアザラシ猟者たちがカンガルー島を利用し始めた。その後スタートが、後にコレット・バーカーが内陸地域を探検した。

 英領植民地としての南オーストラリアへの植民は、ウェイクフィールドの組織的植民理論に基づいて1836年に始まった。最初の移民はカンガルー島と、本土では現在のグレネラグやアデレイドのあたりに定住した。植民地の統治は、英国政府と植民地委員会が分担するという変則的な形をとり、それぞれの代表として総督ハインドマーシュと監督官のJ.H.フィッシャーが南オーストラリアに到着した。このシステムはうまく機能せず、ジョージ・ゴーラGeorge Gaulerが総督として両者に取って代わった。ゴーラ総督のもとで植民地財政は破綻し、英国政府がその負債を支払ったため、1842年には普通の王領植民地となり、1856年自治植民地として認められた。

 オーストラリア植民地の中で唯一、南オーストラリアは囚人を受け入れなかった。19世紀後半の大部分において南オーストラリアはオーストラリアにおける最も重要な穀倉地帯になった。また、多くのドイツ系移民を受け入れたことでも知られており、ルター派のドイツ人がバロッサ・ヴァリーの開発などに貢献した。1863年に南オーストラリアは、ニューサウスウェールズからノーザンテリトリーの管轄権を得たが、その財政上の負担は大きく、1911年これを連邦に引き渡した。19世紀には非国教教徒プロテスタントの革新的植民地、社会の実験場とみなされていた。しかし、第1次世界大戦後になると、宗教的で停滞した植民地と見られるようになった。とりわけ、1938年から1965年の間は自由党・地方党に支持されたトマス・プレイフォドThomas Playfordが継続して政権の座にあり、このような印象が強まった。他方、プレイフォドの在任中に、南オーストラリアは農業州から、大規模な製造業を持つ州へと変貌した。

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