Soccer
サッカー
サッカーは、世界で最も広く行われているフットボールであり、かつ最も人気のあるスポーツのひとつでもある。しかし、オーストラリアにおいて、オーストラリアン・ルールズ・フットボールやラグビーほどの地位は獲得していない。記録に残っているオーストラリア最初のサッカーの試合は、1880年8月14日に行われた。この試合を含めて、オーストラリアにおけるサッカーの萌芽期は、パブリックスクールのOBたちによって主導されたが、あまり一般には普及しなかった。その後サッカーは、1920年代に移民の流入が増加した時期に人気が高まったが、大恐慌によって移民が減少すると下火になった。第2次世界大戦後は、再び移民の流入増加に呼応するかたちでサッカー人気が高まったが、戦前とはその性質が異なったものであった。つまり、イギリスのみならず、全欧州地域から移民が流入するようになったことで、戦前にもまして、移民の出身地あるいはエスニシティと結びついたかたちで、クラブチームや競技団体が組織されるようになったのである。特に1950-60年代頃、サッカーは、エスニシティ間の対立の象徴ともいえる存在になった。移民が中心となって組織したThe Australian Soccer Federationが結成され、アングロ・オーストラリアンのThe Australian Soccer Football Associationに対抗するようになり、1961年にはこれに取って代わったのである。その後、1974年にワールドカップ西ドイツ大会への出場を果たし、これを契機にマスメディアにおいてもサッカーが大きく取り上げられるようになるとともに、1977年にはナショナルリーグも発足した。1980年代には、少年を中心に競技人口も増加し、オーストラリアン・ルールズ・フットボールと並ぶほどの人気を有するようになったと主張されたが、プロの試合における観客は減少した。これは、ヨーロッパからの移民の減少により、エスニシティを単位とする各クラブの支持基盤が揺らいできた一方で、各クラブの成り立ちがエスニシティを基礎としてきたために、一般の支持を得ることが難しかったためである。このようにオーストラリアにおけるサッカーは、移民あるいはエスニシティの問題と深い関係をもっている。同時に、サッカーは、長期にわたって労働者階級のスポーツとしての性格を有していた。サッカーの主な担い手は、当初こそパブリックスクールのOBたちであったが、すぐに労働者階級に取って代わられ、工場、港湾及び鉱山等の労働者がサッカー人気を支えてきた。このことは、ラグビー・ユニオンやクリケットが、一貫して中産階級のスポーツとされてきたこととは対照的である。近年は、サッカーも中産階級のスポーツとしても見なされるようになってきたが、これはオーストラリア国民のいわゆる「総中流化」が進んだ結果といえる。
浅野敬一00