Snowy Mountains Hydro-Electric Scheme
スノーウィー・マウンテンズ水力発電計画 (水資源開発計画)
オーストラリア最大規模の公共土木事業で、1949年に始まり、1972年に完成した。この計画の目的は、ニューサウスウェールズ南東部のスノーウィー・マウンテンズ(オーストラリア・アルプス)を源にするスノーウィー川と、その支流ユーカンビーンEucumbene川の水を灌漑と発電に利用することであった。そのためにダムとトンネルを組み合わせ、そこから一部の水を、マリー川に流し、また、一部の水は西方のニューサウスウェールズのマランビジー川に流した。これによって、ニューサウスウェールズの中央部・西部に位置するマリー・マランビジー両川流域の灌漑システムに水を供給し、また、ニューサウスウェールズ、ヴィクトリア、首都特別地区ACTに電力を供給することが可能になった。この事業は、1949年に連邦政府が設立したスノーウィー・マウンテンズ水力発電事業局によって遂行された。1967年まで、事業局局長ウィリアム・ハドソンSir William Hudsonが、その建設と操業の責任を負った。
この計画の概要は、19世紀にさかのぼる。当時、干ばつ対策ため、灌漑用の分水路を建設すべきだというさまざまな提言がなされていた。1881年、クーマの測量技師フィリップ・アダムズが、ニューサウスウェールズ王立調査委員会に、スノーウィー川の進路を変えてマランビジー川に合流させ、灌漑に役立てるべきだという提言をした。彼のアイデアによって調査が進められたが、資金不足のため、実現はしなかった。この問題は、キャンベラが首都として選ばれた時に再浮上し、キャンベラに水と電力を供給する必要性から、この計画は現実味を帯びはじめた。さらに、1926年、シドニーの都市汚水・排水局のT.W.キールKeeleが、シドニーまで続くトンネルや水路の建設によって、スノーウィー川の水をルート上の各地に供給するという案を立てた。
1920年代末以降、灌漑と発電を併せた計画は、関連地域の関心を集めるようになった。ニューサウスウェールズの電力供給管理官H.P.モスMossの1944年の報告書や、ヴィクトリアの州電力委員会のO.T.オルセンOlsenによる1946年の報告書など、土木工学の専門家の報告書によって、この大規模な計画が実現可能と判断される一方、電力と灌漑用の水がそれまで以上に必要となったという事情もあったのである。こうして、1946年までに、利害関係のあるニューサウスウェールズ州、ヴィクトリア州と連邦政府の間で大まかな合意が得られ、計画が承認された後、1949年に労働党首相チフリーのイニシアティヴのもと、着工された。自由党のメンジーズ首相はこれを受け継いだ。
水力発電事業局の本部は、ニューサウスウェールズのクーマに置かれた。主に海外企業の資本とヨーロッパから新たにやってきた移民の労働力によって遂行されたこの事業は、戦後期の国家建設プロジェクトの目玉となった。最終的には、合計160キロメートルのトンネルによってつなげられた17の貯水ダムと7つの発電所が建設され、建設費は総額9億ドルに上った。この事業によって、オーストラリアの資源開発問題に対する見方は、新しい段階を迎えたといえる。
水野祥子01