Singapore Base
シンガポール基地
1819年以来、マレー半島南岸沖のシンガポール島は、イギリスの支配下にあり、西洋と極東を結ぶ重要な寄港地となる。第1次世界大戦後、極東において日本海軍に匹敵するだけの海軍を維持することは不可能だとわかったイギリスは、大艦隊基地としてシンガポールに白羽の矢を立てる。極東海域への入口であると同時に、ヨーロッパにより近いため、必要とあれば、本国から艦隊を派遣することができると考えられたのである。
ヨーロッパと東洋で同時に戦闘が起こるという可能性ゆえに、基地の戦略的価値は、たえず疑問視された。さらに1930年代初めに、防空力にではなく、引き続き海軍力に重点を置いたことで、基地の攻撃力は著しく損なわれた。
1921年、太平洋における海軍縮小と極東問題を討議するワシントン会議(1921-22)にいたる交渉のなか、イギリス政府は基地建設を決定する。同会議により、シンガポールは、太平洋地域におけるイギリスの主力艦の最前線基地となる。基地は、オーストラリアとニュージーランドの防衛にとって重要であったため、両国は建設費の分担に同意する。建設は1923年に始まり、24年にイギリス労働党政府により中断された後、続く保守党内閣により同年末再開されるが、29年に再び労働党内閣の下で遅滞する。
シンガポールは、戦間期のオーストラリア防衛戦略に不可欠な要素であったために、国際連盟の平和維持機構の機能不全による国際情勢の悪化とともに、基地建設の遅れは、時折、英豪間の対立の原因となった。基地は、当時イギリスがアジアに割くことができた国力の限界であり、短期間(1929-31)を除いて戦間期オーストラリアの政権を握った保守党系政府は、通常、シンガポール防衛に関するロンドン政府の言質を受け容れる姿勢を示した。1938年に基地は完成したが、ヨーロッパ戦争により、その能力を十分に活かすことができず、戦況が悪化するにつれて、ヨーロッパからシンガポールへ艦隊を派遣するのにかなりの時間を要することが懸念されるようになった。1941年にようやく、イギリス政府は、戦艦リパルス号とプリンス・オヴ・ウェールズ号を含む艦隊を派遣したが、両艦とも、同年12月にシンガポール北沖で、日本軍によって撃沈される。そして翌年2月、日本軍の侵攻により、シンガポールは陥落し、7万人以上のイギリスおよびオーストラリア兵が捕虜となった。
宮崎章00