Shearers' Strikes
羊毛刈取り職人のストライキ
クィーンズランドとニューサウスウェールズで1890年代に起こった労働組合運動の1つであり、牧畜業の季節労働者であった羊毛刈取り職人によるストライキである。ストライキ以前の羊毛刈取り職人の労働環境は悪く、低賃金、不十分な食糧や粗末な宿泊設備が一般的であった。
ニューサウスウェールズの羊毛刈取り職人は、スペンスW.G.Spenceの指導の下で労働組合the Amalgamated Shearers' Unionを1886年に創設し、賃金の引き上げや、組合員だけのクローズドショップの導入を要求した。このような労働組合は、オーストラリア各地で様々な職業に関して1890年前後に創設された。これに対して雇用者の側も連合組織を設け、労働組合員でも非労働組合員でも自由に雇うことができるとする、「契約の自由」を目標に掲げた。ニューサウスウェールズの牧羊業者の組織は1890年に創設され、1917年にはニューサウスウェールズ牧羊業者協会the Pastoralists' Union of NSWとなった。
各地の労働組合と雇用者側の対立は、1890年8月に航海士組合のストを契機として拡大し、この年の海運ストライキthe Maritime Strikeは、オーストラリアの植民地時代最大の労使対決となった。
1891年1月から6月にかけて、海運ストライキに続いて、クィーンズランドの羊毛刈取り職人組合が雇用をめぐって、牧羊業者協会と争議を起こした。このクィーンズランドのストライキはもっとも大規模なものであり、スペンスとウィリアム・レインが指導したものであった。この羊毛刈取り職人のストライキは、他の植民地の様々な組合によって支援され、クィーンズランドでは牧場にストライキ・キャンプが創設された。ストライキ参加者は武装し、しばしば警察の保護を受けていた非組合労働者と衝突した。
植民地政府は非組合員の雇用を支持し、警察権力を再三ストライキ参加者のキャンプに対して用いた。もっとも有名なものが、クィーンズランド中央のバーコールダンのキャンプでの事件である。このキャンプには、約1,000人がユリーカの旗の下に集まった。12人のストライキの指導者が陰謀罪の判決を下され、何人かは監獄送りとなった。ストライキは失敗し、労働者はもとの仕事に戻った。
長引く経済的な不況は雇用者側の権力を強め、1894年には羊毛刈取り職人の賃金を引き下げた。そのため、再び1894年6月から9月にかけてストライキが起こり、羊毛刈取り職人と市民軍militiaの間で衝突が起こった。また組合員によってダーリング川に浮かぶ汽船ロドニー号Rodneyが燃やされた。
労働組合の指導部には、1891年のバーコールダン・キャンプの経験者も参加していたが、その多くが逮捕された。その罪状は陰謀、扇動、暴動であった。労働組合側は全面的に敗北し、労働組合の解散、組合員数の減少などが起こった。海運ストライキとともにこれらの事件は社会世論を分断した。これを見た、ヘンリー・ローソンHenry Lawsonは、「血がワトル(アカシア属の木)を汚すのか」と述べている。
労働者と雇用者の間の激しい闘争は、オーストラリア植民地の労働運動の形態を変化させた。次第に労働者と雇用者の争いは、政治の舞台へと移行した。1890年にニューサウスウェールズの労働組合評議会は、各選挙区に労働者選挙連盟を結成することを決定し、1891年の総選挙では141人の議会定数のうち、35人の労働組合の候補が当選した。また、不況下で都市の労働組合が弱体化する一方で、労働運動はスペンスの指導する農村地域を基盤とする、オーストラリア労働者連盟AWUを中心とするものになった。そして各植民地の労働党は、農民や小生産者の支持を獲得した大衆政党となった。またこれらの労働運動は、オーストラリアにおける労働仲裁調停システムの発達にも寄与した。
このストライキについては、以下が詳しい。
John Merritt, The Making of the AWU, 1986.
菅原潤哉01