Scullin, James Henry
スカリン、ジェイムズ・ヘンリー
1876-1953
トラウォラ、ヴィクトリア生まれ。
新聞編集者、連邦下院議員(1910-13、1922-49)、連邦首相(1929-32)。
スカリンは1876年9月18日にヴィクトリアのトラウォラTrawallaに生まれた。父は鉄道の保線係、母はアイルランド系の移民だった。14歳までバララットに近いマウント・ロウアンの公立学校に通い、そのあとはバララットの夜間学校に20歳まで通った。金鉱夫、小売店主など20代半ばまでに様々な職種を経験した。1903年ごろ労働党に入党し、AWUの活動家になった。1907年にはサラ・マリア・マクナマラと結婚したが、2人の間には生涯子供はできなかった。
スカリンは1910-13年と1922-49年の期間、労働党から出馬して連邦下院議員になった。1913年に議席を失ったあとは、バララットの労働党の日刊紙『イヴニング・エコー』Evening Echo紙の編集に携わった。この間、徴兵制の反対運動の先頭に立ち、アイルランドのイギリスからの独立運動を支援した。1922年に再選されたあと、労使関係法をめぐる論争に加わり、税制と経済の専門家としてその名を高めた。1927年には党の副党首に、翌年には党首になった。ブルース=ペイジ連立内閣は経済問題で失敗してストライキが頻発するようになった。労働調停仲裁裁判制度の存続を焦点とした1929年の総選挙で労働党は勝利し、同年スカリンは労働党初のオーストラリア出身の連邦首相、オーストラリア初のローマ・カトリックの連邦首相となった。
スカリンが首相になるのとほぼ同時に、世界恐慌が起こった。当初スカリンの信頼を得ていた財務長官セオドアE.G.Theodoreは、緩やかなインフレを誘発する政策を実行しようとしたが、労働党政府はこれを拒否した。政府は関税率を上げるなどの政策をとったが、芳しい成果はあげられなかった。1930年にはイングランド銀行のオットー・ニーマイアが公共支出の削減を提言した。これを受けてラングJ. T. Langは公債の金利削減等を含む「ラング・プラン」を発表した。しかし、これを巡って労働党は分裂、セオドアの処遇を不満とするライオンズらが離党し、国民党と連合して統一オーストラリア党を結党した。同年スカリンは「痛みの均等」を唱え年金と公務員の給料のカットなどで公共支出を削減しようとした。またイギリス本国からの独立性を高めるために、ジョージ5世の反対にもかかわらず、アイザック・アイザックスIssac Isaacsを最初のオーストラリア出身の連邦総督に指名した。
しかし1931年の総選挙で労働党は統一オーストラリア党に惨敗した。労働党内閣が倒れたあと、スカリンは1935年まで同党を率いた。1935年健康上の理由から連邦議会の労働党の党首は辞任した。だが1949年に議員を辞任するまで、経済問題を中心に発言を続けた。1939年にはメンジズ内閣の参戦の決定を強く支持した。1953年スカリンは亡くなった。葬儀は国葬だった。
党首時代何度か病気に苦しめられたがそのたびに復帰してきた。小説に興味をもち、ヴァイオリンを演奏した。ただし妻は絵を描くのが趣味だったのに対し、美術にはほとんど関心を示さなかった。生涯敬虔なローマ・カトリックの信者だったが、白豪主義者でもあった。
左近幸村1101