Scott, Rose
スコット、ローズ(ロウズ)
1847-1925
グレンドン、ニューサウスウェールズ生まれ。
フェミニスト
1847年10月8日、ニューサウスウェールズのシングルトン近郊のグレンドンGlendonに生まれる。インド生まれの牧師で後にニューカッスルの警察地方長官となったヘレナス・スコットHelenus Scottの娘で、8人の兄弟姉妹のうちの5番目だった。彼女の母親は体が弱く、スコットはグレンドンで常に献身的に看病していた。1879年に父親が死ぬと、年収500ポンドを相続し、母親の面倒をみた。1880年に妹が死ぬと、その息子を養子とし、母とともにシドニーに移住した。
35歳からスコットはシドニーの有名人になった。多くの訪問者が、ウラーラWoollahraのジャージー・ロードにある、彼女の家のフライデイ・イブニング・サロンに集まった。ジャージー・ロードは政治家や裁判官、社会事業家、作家、詩人などが集まる場所であった。スコットによれば、彼女のフェミニズムは『口やかましい女の制御』の中のキャサリーナの服従の話に由来するということであった。また、J.S.ミルの影響を認めていた。スコットの蔵書には、その当時の女性小説家やイギリスやアメリカのフェミニストたちの作品が含まれていた。1889年に初めて書いた記事は、『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙に掲載された「ホーム・レッスン」というタイトルのもので、教育システムの中の詰め込み主義や競争を批判するものであった。
スコットは1889年に生まれた女性文学協会の設立メンバーであった。1891年にはニューサウスウェールズ女性参政権連盟をたちあげた。連盟の設立時の書記としてスコットは、彼女の社会的な人脈を使ったり、抜け目なく陳情したりして、参政権のための闘争にエネルギーを注いだ。また、売春の非合法化や女性の合意年齢の16歳への引き上げなどの運動にも従事した。
1896年に母親が死んだ後、スコットは活動を多様化させた。その年、商店や工場の閉店時間くり上げ運動に参加した。1896年に誕生したニューサウスウェールズの国民女性評議会の設立メンバーとなり、1904年からその法務委員会の国際書記や招集者となった。また、1902-10年には女性政治教育連盟the Women's Political Educational Leagueの初代会長を務め、女性や子供の法的権利の改善に貢献し、少女の保護に関する法律を作ることに成功した。しかし、政党政治が進展する中で女性だけによる女性のための政治運動は行き詰まった。1908年には、ロンドン平和協会のニューサウスウェールズ支部を設立したが、第1次世界大戦の勃発によってその努力は無駄であったと感じた。ボーア戦争や第1次世界大戦を通じて平和主義者として運動した。
スコットは1922年に公的な生活から退き、1925年4月20日に死亡した。ローズは、女性に対する男性支配を弱めるために働き、結婚か売春以外の女性の選択の道を広げようとした。ローズは、女性の能動性と独立を高く評価した。そして、1921年にはシドニー大学に法学部の女学生のための賞を設立するのに50ポンドの寄付をした。
田中沙依1201