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Russo-Japanese War
日露戦争
東アジア本土、特に満州と朝鮮半島をめぐって、日本とロシアとの間に起こった戦争。1904年2月、日本軍は遼東半島の旅順港で越冬するロシア海軍の極東艦隊を攻撃した。その後、日本軍は満州へと北上し、遼陽、奉天の両会戦でロシア軍に大損害を与えたが、自軍も同様に損害を蒙った。1905年5月、対馬沖の日本海海戦でロシア海軍のバルティック艦隊が全滅すると、この戦争は終結へと向かった。
日露両国は、アメリカ合衆国の調停により、1905年9月、ニューハンプシア州のポーツマスで和平条約を締結した。この条約により、日本の朝鮮半島進出が認められ、旅順港、遼東半島の鉄道、南樺太がロシアから日本へと委譲された。また、日露両国の軍隊は満州より引き上げることとなった。
ヨーロッパ列強の1つがアジアで初めて敗北したため、日本の勝利はアジアの力をヨーロッパ諸国に大きく印象づけた。日露戦争はオーストラリアにも大きな影響を与えている。戦争の間、オーストラリアの新聞の大半がイギリスの同盟国であった日本寄りの姿勢を見せていた。しかしながら日本が戦争に勝利すると、従来のロシアの進出への恐怖に代わって、太平洋に対する日本の意図について疑念が生じたのである。戦争はオーストラリア人の国防問題に対する関心を高め、イギリス政府に対し軍事上のさらなる権利をオーストラリアに与えるよう圧力をかけた。1909年の防衛法による軍備増強、1911年のオーストラリア海軍の分離は、部分的ではあるが、オーストラリアの日露戦争への反応の結果であると言える。
中村武司01