Royal Australian Air Force (RAAF)
ロイアル・オーストラリアン・エアフォース、オーストラリア空軍
第1次世界大戦中、小さなオーストラリアの空軍部隊が、中東、そして後にヨーロッパで、陸軍とともに任務にあたっていた。そのメンバーの多くは、1914年にヴィクトリア州のポイント・クックに開設された空軍トレーニング・センターに所属していた。しかし、この部隊は戦後に解散した。
ロイアル・オーストラリアン・エアフォースは1921年に設立された。ポイント・クックの訓練専科学校が1923年に開設され、1930年代初めにはヴィクトリア州のレイヴァトンLavertonと、ニューサウスウェールズ州のシドニー西方に位置するリッチモンドのそれが続いた。しかし、軍事費のうち、RAAFへの支出は取るに足らないものであった。戦間期の大半において、オーストラリアの安全はイギリス海軍とシンガポール基地に依存していたのである。しかし、1936年から、帝国海軍への依存が日ごとに不安定になっていったので、防空問題がより切迫した課題となった。
第2次世界大戦では、当初からイギリス空軍との間で協力体制が確立しており、1939年の戦争勃発時には、ポイント・クックの出身者500人のうち約半数が海外での経験をもっていた。RAAFは帝国空軍訓練計画に参加した。1939年に始まった計画は、帝国各地に設置された空軍基地を利用してパイロットなどを訓練し、同時に空軍の戦力を分散することで、敵のイギリス本土への攻撃の脅威から生じるリスクを小さくすることを狙いとしていた。オーストラリアは日本の脅威という観点から、高度な軍事訓練を自国で行なうことを主張していたにもかかわらず、カナダがそのメイン・センターとなった。RAAFの兵力は、戦争が進むにつれ劇的に増加した。男性空軍兵士は1939年の3,200人から、1943年までに140,000人へと増加し、女性空軍兵士も20,000人近くになった。将校の数は1939年の300人から、同時期に20,000人へと増加した。RAAFは第2次世界大戦の主要な2つの戦線に参加し、終戦までに約10,000人強の死傷者を出した。
RAAFは朝鮮戦争とヴェトナム戦争に参加し、また様々な平和維持活動、特に東南アジアのそれに参加した。それらの活動は、アメリカによって支持されていた。1960年代後半のヴェトナム戦争のピーク時には、RAAFの兵力は25,000人近くに達した。
1991年の湾岸戦争にはRAAFは直接参加することはなかった。しかし、諜報活動従事者や医療チームが連合軍に協力した。
松田真01